旧統一協会問題と創価学会問題の違いとは?

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予算委員会が始まり、野党は政府内の閣僚と旧統一協会との関わりを追求し、岸田総理の任命責任を論拠に政局に持ち込もうと考えているようだ。

拙稿でも触れたように、現在の円安、インフレ基調に対して財務省と日銀に申し入れを行った階猛ネクストキャビネット財務・金融担当をはじめ、立憲民主党内で経済に明るいグループが文章を作成したようだが、その中身は全く意味をなさない文章だった。詳しくは拙稿を再読願いたい。

立憲民主党は日銀と財務省に何を言いたかったのか?

それに加えて、これも既定路線と言えば言えるが、野党は旧統一協会問題を中心に政府への追及を始めた。

その中でも、後藤祐一議員は、閣僚が旧統一協会に関わりがあったとか、地方の事務所費問題について、あのモリカケ問題同様、政治資金規正法の範囲内で特段法的な問題があるとは思えない点を、ネチネチと追求している。

国会中継

過去、モリカケ問題を追求してきた議員、中でもテレビ中継の時に活躍してきた野党議員は、軒並み議席を失った。後藤議員がそうならないことを祈るばかりだ。

立憲民主党は、細田議長、辞任した山際前経済再生担当相、他自民党議員の旧統一協会との関わりを追求する構えのようだが、これもモリカケの時と同様、週刊誌報道の後追いを国会が行っている印象は拭えず、貴重な国会審議の時間を浪費しているとしか思えない。

立憲民主党は創価学会が組織する公明党について、同様な追及を行わないのは何故か?それも疑問がある。かつて、麻生政権時代、旧民主党の石井一議員が、公明党と創価学会との関係性を執拗に追及してきた。日本国民の誰もが、創価学会が日本の国教を目指して政治団体を組織し、日本の公党である公明党に直接的な影響を与えていることを知っている。当時、創価学会が選挙の時に宗教施設を中心に信者が集票マシーンとして機能していることもよく知られている。

公明党の竹入義勝元委員長や矢野絢也元委員長が、公明党と創価学会の内幕を暴露した際、公明党と創価学会は両者を執拗に糾弾してきた歴史もある。

つまり、創価学会と公明党は、日本国憲法に抵触するほど政教一致してきたのだ。

参議院・予算委員会:石井一議員が創価学会問題を追及(10月15日)その1

当時の石井一議員は、長年にわたって創価学会と公明党の関係と公明党と連立与党を組む自民党を追求してきた。私は、デフレ不況脱却が出来なかったことでその閉塞感を打ち破ることを国民が願ったからこそ、政権交代が起きたと思っているが、麻生政権が解散に追い込まれた一つの要因が、石井一議員が長年追求してきた創価学会問題を国会の場で白日の下に晒したことも大きいと考えている。

仮に経済的に国民から反発されるような失政を行っていなければ、なし崩し的に野党が他に追求することが無かったから、公明党問題を取り上げているだろう、くらいに思っていただろう。しかし、庶民の経済に閉塞感があり、そこから抜け出せないとなれば、当然だが、言いがかりのようなものが、有権者の心を動かす要因にはなるのは必然だ。

さて、現在立憲民主党が追求している旧統一協会問題についてだが、確かに旧統一協会が霊感商法や強引な集金を行ってきたことは問題があるだろう。それ以上に、過去数十年にわたって創価学会と公明党の間で行われてきた政教一致問題を傍に置いて、旧統一協会問題だけを槍玉に上げることの正当性を感じられない。

仮に社会的に問題がある団体だとしても、違法性を問えない宗教活動を理由に解散請求を行うことは、それ自体が日本国憲法の主旨に反する。

憲法で保障されているのは、個人の信教の自由と共に、宗教活動の自由も認められている。

つまり、個人もまた宗教団体側も、日本においてはその活動と信仰においては自由を保障されている。この両方が憲法で守られている事実を考えた時、仮に旧統一協会にその活動において問題があったとしても、違法性が裁判所で認められた霊感商法以外は、純粋な宗教活動であり、仮に集金の手法が第三者から見て強引であったり、詐欺まがいの結果を保証しない教えの履行であったとしても、それは宗教活動の範囲内であれば自由が保障されているおり、また信者側も個人の信教の自由として信じる信じないの内心の問題に他人は関与することは出来ない。

仮に立憲民主党が旧統一協会に対して解散を視野に入れた質問権行使に関して文化庁が検討会議をスタートさせたが、これは野党議員の申し入れに押された形となった。

私は以前の拙稿でも触れたが、オウム真理教と旧統一教会では批判されている中身に大きな違いがある。

オウム真理教の場合は広く社会の不特定多数に対してのテロ行為であったが、旧統一協会の場合、信仰心のある信者に対しての献金の推奨であり、それは個人の信教の自由の範囲に該当する。仮に親族から返金要求が行われたとして、信仰心の発露である個人の献金行為に対して、親族であっても他人がその行為に影響を与えることが可能なのか?或いはそれを裁判所が判断していいいのか?という問題がある。

その意味で、国会質疑の場で閣僚個人か信者か否かを質問した立憲民主党議員が問題なのではなく、旧統一協会のケースの場合、政府が解散命令も含め立法の場でその是非を問えるのか?という問題がある。そちらの方が重要で、憲法や民法の解釈も含め、議論が大きく分かれる点だろう。

私は、国会でそれらの問題を質疑すること自体がナンセンスだと考えるし、そもそも違憲だと思う。

それならむしろ憲法審査会に議論を上げた方が良い。

信者以外の視点で見れば、確かに旧統一協会の布教活動や集金行為は、社会にとって害毒であると言えるだろう。ではそこに違法性があるのか?と問われれば、個人の内心の問題に踏み込むことになるし、旧統一協会の布教のあり方そのものに違法性を問うなら、それは憲法のレベルまで議論を高めなければならなくなる。

これは、戦後、日本国憲法が制定されて以後、長くこの日本に横たわる問題の一つでもあり、また、先述の創価学会と公明党の関係性の問題にも通じる。少し政治や宗教のことを知った人なら、公明党の政教一致が憲法違反であることは明白だが、公明党議員やその支持者は、あくまでも政治と宗教は別であり、公人ではなく個人の信教の自由を盾に、ここ50年くらい、ずっと逃げ回ってきたのだ。

議論の俎上に乗せることさえ難しい。

もっと言えば、旧統一協会批判を行う立憲民主党は、その前に公明党と創価学会との関係を追求するのが先だろう。

私はそこに矛盾を感じてならない。

【引用】
立憲民主党は日銀と財務省に何を言いたかったのか? → https://ryougenkurasawa.com/?p=1414
国会中継 → https://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=54131&media_type=
参議院・予算委員会:石井一議員が創価学会問題を追及(10月15日)その1 → https://www.youtube.com/watch?v=zsJaSK6W9dk