言論の自由は憲法21条で保障された重要な権利だ。
なぜ重要かと言うと、言論や批判が自由に行えないと民主主義プロセスが健全に機能しないからだ。
具体例を挙げよう。
政府が突然消費税を50%に引き上げるという方針を示したら、メディアだけでなくネット上でも反対の声が上がるだろう。
国会議員諸氏は「この法案に賛成したら、次の選挙で落選するかもしれない」と恐れる。
このように言論や批判が自由であることによって、消費税の急激なアップという経済的権利の侵害を防ぐことができる。
政府や議員諸氏も、炎上が予想できるような方針は最初から示さないだろう。
ジョン・スチュアート・ミルは「自由論」で次のようなことを書いている。
有害な考え方を持った団体を取り締まると、一時的には社会の効用は高まるかもしれない。
しかし、長い目で見ると社会の効用は低下する。
少数派を容易に取り締まることができるようなるし、当時の社会で有害と思われた考え方が将来的に多数の人たちに支持される可能性もあるからだ。
現に、ソクラテスやイエスキリストは、当時の人たちにとって有害だと思って処刑されたが、それが誤りであったことは現在明白だ。
(余談ながら本稿は、現在問題になっている旧統一教会とは無関係だ)
言論や批判の自由を考えるに当たって避けて通れないのが「タブー」の問題だ。
数年前、女性アイドルグループがナチスの制服と似たコスチュームを着たことに批判が集まった。
服装が似ていただけでこの始末だから、ナチスやホロコーストを擁護するような発言をすると袋だたきに遭う恐れがある。
しかし、昔のスペイン人たちは中南米諸国で極めて残虐な行為を行ったり、一国を滅ぼしてしまったりもした。
米国も日本に原爆を投下し、ホロコーストと変わらぬ残虐行為を行っている。
このように考えると、正義は常に勝者の側にあるというのが歴史的な事実だ。
まさに、「勝てば官軍」というように、勝者の正義や価値観が敗者に押しつけられてきたのが歴史的事実だ。
真理を導くためには、活発な批判が望ましいとジョン・スチュアート・ミルは説いた。
しかし、今日でも数々のタブーが存在するのが現実だ。
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」とは、ヴォルテールの名言だ。
どのような意見でも(決してタブー視することなく)堂々と発言できる社会こそ、真に望ましい社会だと考える。
編集部より:この記事は弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2022年11月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。