主観を追求して客観に至る

「上に立つ者にはみな権力が与えられており、人間にはそれぞれ権力というものが認められております。ところが権というものは曲者であって、とかく災の生じやすいものであります。」

上記は嘗て「今日の安岡正篤(37)」として、私がTwitterで御紹介した安岡先生の言葉です。また続けて、次の先生の言もツイートしました――『老子』には「何事によらず客となって主とならず」。すべてを客観視するという処世の妙を吐露しておりますが、左様ばかり申せませぬので、権というものは早く握って、早く抜けた方がよいと思います。

全て自分が至る所主であれ、というのが陽明学の基本的な考え方であり、此の「何事によらず客となって主とならず」とは全くの逆です。私自身は、何事も主にならねば寧ろ駄目だと思っており、拙著『安岡正篤ノート』(致知出版社)第2章では、次のように述べておきました。

――陽明学では、主観を追求して客観に至るというように、自分を確立できているからこそ客観的な立場でものが見えてくると教えています。この自分の立場・主義主張を明確にして自分を確立するというのも、東洋思想を貫く考え方であると思います。そうした自分を確立するために、とりわけリーダーたる者はすべてを自分の責任に置くというあり方を絶対に身につけておかなくてはならないのです。

『論語』の「衛霊公第十五の二十一」に、「君子は諸(これ)を己に求め、小人(しょうじん)は諸を人に求む」という孔子の言があります。君子はあらゆる事柄の責任を自ら負い、決して誰かに転嫁しません。それをやるのは小人です。此の責任の所在を常に自らに置くという考え方は、東洋思想の根幹にある思想だと思います。

之は裏を返せば、人たるもの、きちんと主体性を持たねばならぬ、と教えているわけです。『孟子』に「大人(たいじん)なる者あり。己を正しくして、而(しこう)して、物正しき者なり」とあるように、全ては身を修めることから出発し、自分を確立し、人を感化して行くのです。

そもそもが客観視するとは、当然それはそれで客観に臨むのですが、同時にそれが正しいか否か等々判断の主体は、自分自身の主観です。従って「すべてを客観視するという処世の妙」とは、基本ならないでしょう。主と客の関連性を一言で言えば陽明学の如く、主が充実していたら客も充実して行く、といったものではないかと私は理解しています。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年11月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。