「死海文書」は何を明らかにしたか:20世紀最大の考古学的発見の謎

ベドウィン(遊牧民族)の子供が迷子となったヤギを探している時、死海の北西岸にある洞窟で、謎のパピルスの破片が入った粘土の瓶を見つけた。その中に多くの古文書があった。1947年11月だ。「20世紀の最大の考古学的発見」と呼ばれた「死海文書」の発見である。今年はそれから75年が経過した。

死海に近い洞窟で発掘作業する考古学者(バチカンニュース独語版公式サイトから、2022年11月27日から)

「死海文書」の中にはヘブライ語で書かれた旧約聖書(イザヤ書)が見つかった。これまでの旧約聖書のヘブライ語写本としては最古だ。古文書が書かれた時期は、紀元前140のユダ王国のハスモン朝時代からローマ軍がエルサレムに侵入し、陥落させた紀元後69年までの期間とみられている。「死海文書」については、ユダヤ教の一分派のクムラン教団の中でも戒律が厳しいエッセネ派が記述したものではないか、という説が主流だ。ローマ軍の総攻撃を受けたクムラン教団は修道院にあった文書を死海のふもとの洞窟に隠したというのだ。ただし、考古学者の中には、「エッセネ派ではなく、サドカイ派によるものだ」と主張する学者もあるなど、「死海文書」が発見されて75年が経過したが、「死海文書』を巡る多くの謎は依然解明されていない。

はっきりとしている点は、1947年11月29日、最初の4つのクムラン巻物がイスラエルの学者によって取得され、センセーショナルな発見に関する最初の報告は翌年4月12日のタイムズ紙に掲載された。考古学者による最初の発掘調査は1949年に入ってから始まった。1950年代の終わりまでに、テキストと断片が合計11の洞窟から回収された。現在までに、さらに多くの発見がなされている。

「死海文書」でもっとも関心をひく点は、イエスと原始キリスト教会に関する関係だ。イエス時代のユダヤ教の事情やキリスト教発生時代の状況が分かると期待されたが、「死海文書」にはそれに該当する部分は見つかっていない。ただ、イエスが生きていた時代に記述された「死海文書」は考古学的にみて大発見であることは変わらない。

「死海文書」は古代ユダヤ教と初期キリスト教の貴重な証言だ。「聖書の一部であるプリニウスなどの古代の著者によるテキストだけでなく、クムランに住んでいて「エッセネ派」として知られているユダヤ人コミュニティの非聖書的な宗教的テキスト。巨大なパズル約1000のドキュメント(約3万のフラグメント)は、ヘブライ語、アラム語、またはギリシャ語で、紀元前300年から紀元100年の間に遡る。聖書のイザヤ書のほぼ完全なコピーで、長さは7メートルを超える。このように、クムランスクロールは他のどの写本よりも聖書の起源に近い時期にさかのぼる」(バチカンニュース独語版11月27日)という。文書のほとんどは現在、イスラエルの博物館や研究機関に所蔵されている。

興味深いことは、死海文書のDNA分析の結果、「当時この地域には家畜として山羊しかいなかったにもかかわらず、多くのテキストが羊の皮に書かれていることだ。このことから、全ての死海文書がクムラン教団で作成されたのではなく、エルサレムの学者によって作成されたものもあるはずだ」と結論付けられていることだ。

コンピューターの分析とアルゴリズムの助けを借りて得られる洞察も刺激的だ。イザヤ書の巻物から、何人かの作家が働いていたことは明らかだ。後加工や修正の跡が多数ある。書き手は内容にも介入し、コンテンツに追加したり、文章全体を省略したりしていることも分かっている。死海文書はほとんどがヘブライ語で書かれてあったが、一部、アラム語文やギリシャ語文もあったという。

「死海文書」が見つかった洞窟は当時、ヨルダンの領土に入っていたことから、ヨルダン政府は死海文書はヨルダンのものだと主張して、イスラエル側と対立。「死海文書」の発見場所は当時、イギリスの統治領土だった。また、「死海文書」関連の出版が遅れたのは、カトリック教会の教えと合致しない箇所があったからだ、といった「カトリック教会陰謀説」が流れたことがある。「死海文書」と呼ばれる断片には多くの偽物も含まれていた。これまで「死海文書」を巡り、多くの紛争や不祥事が起きている。

世界の考古学者はこれまで発掘された多くの古文書を分析し、歴史的事実を実証してきた。例えば、イスラエルの統一王国時代のダビデの存在が実証された。ただ、旧約聖書が記述するような巨大な王国ではなく、地方の小さな部族だったことが明らかになった。エジプトから60万人のイスラエル人を率いて神の約束の地、カナンを目指した指導者モーセの実存は考古学的には今なお実証されていない。

イエスの遺体を包んだ「聖骸布」が一般公開されて大きな話題を呼んだことがある。ただし、1988年に実施された放射性炭素年代測定では、「トリノの聖骸布」の製造時期は1260年から1390年の間という結果が出た。すなわち、イエスの遺体を包んだ布ではなく、中世時代の布というわけだ。モーセだけではない、イエスの墓も見つかっていない。

このコラム欄で「考古学者は『神』を発見できるか」(2019年11月20参考)というタイトルのコラムを書いたことがある。「死海文書」は考古学者にとって宝物が詰まった古文書だろう。その文書が発見されて今年で75年目を迎えたが、考古学者は「死海文書」の中でイエスの足跡を見出すことができなかったのだろうか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年11月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。