武力紛争と“現代の律法学者たち”:イランとロシアの聖職者

宗教人は宗派の相違を超え、戦争や紛争を支持したり擁護することは基本的にはない。教えを伝える聖職者は平和を諭し、相違や対立点を乗り越え、和解と連帯をアピールするものだ。ところで、世界では目下、27カ所で武力紛争が行われているが、その背後で宗教指導者が重要な役割を果たしているケースが少なくない。ここではイランとロシア両国の聖職者に絞って考えてみた。

イラン

イランは1979年のイスラム革命後、イスラム教の教えを国是としたイスラム教国だ。1989年のホメイニ師の死後、その後継者にハメネイ師が就任して、今年ではや33年目になる。

イラン最高指導者アリ・ハメネイ師 イランのIRNA国営通信より

聖職者がトップにいるイランで9月以来、女性へのスカーフ着用問題で女性たちが抗議の声を上げ、イラン全土で抗議デモが行われている。抗議デモの直接の契機は、22歳のクルド系イラン女性マーサー・アミニさん(22)が9月、スカーフをイスラム教の服装規定通りにつけていなかったという理由で拘束され、拷問を受けた後、病院で亡くなったことだ。

オスロに本拠を置く人権団体イラン・ヒューマンライツ(IFR)は11月29日、「治安部隊によって少なくとも448人が殺害された」という。国連人権委員会のフォルカー・テュルク氏の情報によると、子供を含む1万4000人が抗議活動で逮捕された。

ハメネイ師は10月3日、国内の抗議デモに対し、「わが国を混乱させるため米国、イスラエル、海外居住反体制派イラン人が背後で暗躍している」と述べ、国内の混乱の責任を西側に押し付けている。ライシ大統領はまた、「不法なデモ暴動者に対して毅然と対応していく」と警告を発している(「最高指導者ハメネイ師の『弁明』」2022年10月5日参考)。

ロシア

ロシアのプーチン大統領は2月24日、ウクライナに軍を侵攻させ、軍事侵略を開始した。そのロシアの主要宗教、ロシア正教のキリル総主教はプーチン大統領のウクライナ戦争を擁護し、ロシア軍のウクライナ戦争は聖戦と主張してきた。

ロシア正教会最高指導者キリル1世(モスクワ総主教)Wikipediaより

同1世は、クリミア半島をロシア正教会の起源と見なしている。「キーウ大公国」のウラジミール王子は西暦988年、キリスト教に改宗し、ロシアをキリスト教化した。キリル1世はそのウクライナとロシアが教会法に基づいて連携していると主張し、ウクライナの首都キーウを“エルサレム”と呼び、ロシア正教会はそこから誕生したのだから、その歴史的、精神的繋がりを捨て去ることはできない、という論理だ。

キリル1世は、「ウクライナに対するロシアの戦争は西洋の悪に対する善の形而上学的闘争だ」と強調。ウクライナ戦争は「善」と「悪」の価値観の戦いだから、敗北は許されない。キリル1世はプーチン氏の主導のもと、西側社会の退廃文化を壊滅させなければならないと説明する。中途半端な勝利は許されない。その結果、戦いには残虐性が出てくる。

マリウポリの廃墟や“ブチャの虐殺”、病院、学校などの民間施設が破壊され、多くの民間人が亡くなっているが、キリル1世の信念は変わらない。ただここにきて、ロシア正教会でもキリル1世のウクライナ戦争の聖戦視に対して、批判の声が出ている。キリル1世は世界の正教会でも孤立化してきている。

世界の正教会の精神的指導者、東方正教会のコンスタンティヌープル総主教、バルソロメオス1世は、「ウクライナに対するロシアの戦争を即時終結すべきだ。この『フラトリサイド戦争』(兄弟戦争)は人間の尊厳を損ない、慈善の戒めに違反している」と述べている(「露正教会キリル1世は辞任すべきか」2022年10月27日参考)。

ハメネイ師とキリル1世は、国の精神的最高指導者だ。その指導者が抗議デモ参加者を弾圧する治安部隊を諭すことも、戦争を止めるように忠告することもせず、「この世の指導者」の蛮行を擁護している。そして「欧米諸国の暗躍」や「形而上学的戦い、善悪の闘争」説を唱えているのだ。

宗教指導者が戦争や紛争、テロを支援することは初めてではない。アルカイダやタリバン、イスラム国(IS)などのイスラム過激テログループの指導者たちは一時期、聖戦を掲げてテロを繰り返し、世界はその対応に悩まされた。彼らと違うのは、イランやロシアの宗教指導者は自ら国の治世を担当し、「この世の指導者」と連携し、その過激な思想を推し進めていることだ。そのため、抑えが効かなくなり、戦いは残虐性を一層、際立たせている。

ところで、フランスの哲学者シャルル・ド・モンテスキュー(1689年~1755年)は「法の精神」の中で、「宗教を愛し、それを守っていくには、それを守らぬ者を憎んだり、迫害したりする必要はない」と述べている。新約聖書「マタイによる福音書」では、自分たちは変わる必要はなく、悔い改めて変わるべきは相手だ、と考える律法学者、パリサイ人をみて洗礼ヨハネが叱責する場面が記述されている。

モンテスキューと洗礼ヨハネは、「自分は敬虔だ」と自惚れている信仰者や聖職者が陥りやすい過ちを警告しているわけだ。ハメネイ師もキリル1世も“現代の律法学者パリサイ人”となってはならないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年12月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。