大平首相と岸田首相では同じ宏池会でも大違い

日本の総理大全」(プレジデント社)が尾崎行雄記念財団の「咢堂ブックオブザイヤー2022大賞」に選んでいただいたことはすでに、昨日の記事で紹介したが、本日はそのなかから大平正芳元首相の項目を紹介したいと思う。

岸田首相も属する宏池会の先輩だが、まことに良心的で果敢な名総理だった。あと数年、大平正芳が総理だったら、日本は道を間違えることはなかったとつくづくと思う。多くの政治家が尊敬しているのも当然であろう。

第68代 第一次大平正芳内閣

~総選挙で敗北後、自民党史上最大の内紛「四十日間抗争」を繰り広げる~

1978(昭和53)年12月7日~1979(昭和54)年11月9日 在職日数338日

性格:自民党内閣(派閥均衡)
業績:日本初の東京サミット開催、環太平洋構想、田園都市国家構想、モスクワ五輪不参加
退陣:福田支持勢力との抗争で内閣不信任案により解散

【内閣発足の経緯】

1978年11月の自民党総裁選は、田中角栄の協力を得た大平正芳が予備選で福田赳夫を破って1位になった。福田が本選を辞退したため、大平が新総裁に選出され、新たな内閣を組閣することになった。

【内閣の実績】

このころは国際情勢の動きが激しく、第2次オイル・ショック、米中国交樹立、イランのイスラム革命、米ソ第二次戦略兵器制限条約の締結といった出来事があった。

そうした中で、1979年6月に先進国首脳会議が初めて日本の東京で行われた。このような国際会議の運営経験のない日本にとっては、ひとつの試練だった。フランスのジスカールデスタン大統領が米英独首脳と秘密の事前会合を開いて石油各国別割り当て案をまとめて、日本はそれを挽回するのに大変苦労したりした。現在に比べて外務省の能力も低かった。

外交では福田前内閣の「全方位外交」に対して、「環太平洋協力」を打ち出した。つまり、福田がアジアに重点を置いたのに対して、大平はアメリカやオーストラリアもアジアとの関係構築に取り込んでいこうとした。それはのちにAPECや価値観外交に発展していく。

また、これは第二次内閣でのことだが、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、カーター大統領が1980年のモスクワ五輪をボイコットしたときには、これに思い切りよく追随した。難しい判断だったが、最終的にはそうせざるを得ない問題なので、早期の決断が光った。中国に対しては、鄧小平の改革開放に積極的な助言を与え、またこれを後押しした。

キッシンジャーは、日本人があいまいに約束し、また、それも守らないことを批判しているが、大平については、相手の面子を潰すことなく日本の立場をきちんと説明したし、約束したら必ずそれ以上のことを実行してくれたと異例の高い評価をしている。

なお、福田内閣時代の1978年に訪日した鄧小平と当時、幹事長だった大平正芳は会談し、その際に、中国の経済運営について詳細なアドバイスをし、それに自信を得て、また、日本の専門家のアドバイスを得て鄧小平は改革開放政策を進めた。このために、大平は中国にとっての恩人であると評価されている。

【衆議院解散の理由】

このころ、各地で革新自治体が財政破綻する中で、野放図な財政運営に反省が生まれ、大平は一気に一般消費税とグリーンカード制の導入という正論をもって1979年10月の総選挙に臨んだ。だが、自民党は過半数割れし、党内反主流派との間に、いわゆる「四〇日党争」が繰り広げられた。自民党は事実上の分裂状態となり、反主流派は野党とともに首班指名選挙で福田赳夫に投票するが、決選投票で僅差ながら大平が勝って第二次内閣を組閣することになった。

【主な出来事】

<国内>
1979年1月 第二次石油危機
1979年6月 元号法公布、省エネルギー法公布、東京サミット開催
1979年10月 第35回衆議院議員総選挙

<海外>
1979年1月 アメリカと中国が正式に外交関係を正式に樹立、スリーマイル島原発事故
1979年2月 イラン革命

第69代 第二次大平正芳内閣

~内閣不信任案が可決され、初の衆参同日選挙の最中に首相が急死~

1979(昭和54)年11月9日~1980(昭和55)年6月12日 在職日数217日

性格:自民党内閣(新自由クラブの協力)
概要:訪中し経済協力などを約束
退陣:首相が衆参同日選挙中に急死

【内閣発足の経緯】

1979年10月の総選挙後の首班指名で、自民党は分裂状態となったが、僅差で大平正芳が勝利し、第二次内閣がスタートした。

【内閣の業績】

「総合安全保障戦略」「家庭基盤の充実」「田園都市国家構想」「環太平洋協力」「地方文化振興のための国分寺構想」など大平の構想は、日本の持続的な繁栄を図る的確な方向を示していた。とくに「ドイツのように珠玉のような小都市が連なる国」をめざす「田園都市国家構想」は、大平の地元の金子正則知事が構想したものだった。

こうした大平の経済社会構想は「成長活用形」と言うべきもので、そこそこ成長を維持する力はなおある中で、目先の経済成長だけでなく、成果を文化なども含めた長期的な投資に振り向けていこうというもので、財源問題の解決もその一環だった。

日本の社会福祉はヨーロッパ諸国に比べて遅れていたが、田中政権のころから急速に充実した。だが、大きな政府にはそれにふさわしい税制が必要だったのに、高成長していたので、赤字は後の世代が負担してくれるという前提で制度だけが充実した。

「グリーンカード」(少額貯蓄等利用者カード)は、郵便貯金利子非課税の不正利用を防ぐために名寄せしようというものだった。しかし、国民総背番号制導入に道を拓くとして野党も否定的で、鈴木内閣が実施を延期し、中曽根内閣が制度を廃止した。

消費税にしても、国民総背番号制にしても、これを嫌うのは裏社会である。そして、それに保守も革新もそれぞれつながり、西欧並みの透明性をどうしても獲得できないままだ。

【退陣の理由】

自民党内の抗争は続き、社会党が出した内閣不信任案の採決に反主流派が欠席して可決されるという事態が起こった。これに対し、大平は衆議院を解散して参議院との同日選挙に踏み切った(ハプニング解散)。だが、心身ともに疲れ果てていた大平は、選挙戦中に心不全で倒れて帰らぬ人となった。

【大平正芳(1910~1980)について】

大平正芳の故郷は香川県三豊市で、高松高等商業(香川大学経済学部)から東京商科大学(一橋大学)を経て大蔵省入りした。吉田内閣で池田勇人大蔵大臣の秘書官を宮沢喜一とともに務めた。池田内閣で名官房長官と言われ、ついで外相となった。

大平は田中角栄の明るさを気に入り、田中との連携を背景に宏池会の代表となり、1972年の総裁選挙では、三木を上回る票を得て3位となって福田と肩を並べた。

福田と大平は、人格や知性からしても一流の人物だったし、国際問題や経済問題についての専門知識にしても卓越していた。もし、この二人が政争に翻弄されることなく、4年ずつくらい総理をしていれば、日本の落日はなかったことと惜しまれる。

あるいは、佐藤栄作が4選などせずに福田に禅譲し、田中角栄、大平正芳という順番で政権を担っていたらという思いをする人も多かろう。

【主な出来事】

<国内>
1980年2月 海上自衛隊、環太平洋合同演習(リムパック)に初参加
1980年5月 モスクワオリンピックボイコット決定
1980年6月 第36回衆議院議員総選挙&第12回参議院議員選挙

<海外>
1979年12月 ソ連軍がアフガニスタンに侵攻