弱き者を援ける志を砕く、道徳規範とロールモデルなき精神的亡国の日本

戦後77年「喜寿」を迎えた戦後日本。しかし終戦の日を迎えてから、相次ぎ年長者の道徳観、倫理規範を疑うしかない恥ずべき事件が相次いだ。愛知県牧之原市の園児通園バス取り残し熱中症死事件であり、埼玉県川口市の准看護学校半数退学事件である。さらに静岡県富士市では3件の接触事故の挙句交差点で若い男女二人死傷事故もあった。

子供たちや若い世代まして弱者を守り支える医療保育介護の場で、道徳倫理規範を教え導くべき年長者が自らそれを破り他人の命まで犠牲にし未来を潰す。さらには9月には「息を吐くように嘘をつく」国会で百回以上も虚偽答弁し経済も低迷させておきながら、先の首相が根拠法も無く国葬となった。武士道の国として広く世界に知られた我が国の、精神の落ちぶれようが目に余る9月だった。日本はこれで良いのか。

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牧之原市の事件は、2022年9月5日に認定こども園川崎幼稚園で、通園バスで登園した3歳児が車内に取り残されたままドアを施錠され、熱中症で死亡した事件である。運転手は本来の運転手が休みのため、70代の園長が運転していた。発見時、児は水筒の中身を飲み干し、酷熱のため服も脱いで倒れていたという。

この事件での問題は大きく2つある。一つは当然ながら死亡事故に至った通園バス運行、乗降管理の不備である。誰が乗り全員降りたか、点呼や車内の確認等を怠っていたようである。もう一つはその事後対応である。

人間はミスを冒す、というのは事故防止と安全管理の常識であり基本である。その上でフェイルセーフを講じるのであるが、それでも事故は一定の確率で発生する。だから問題は、事故が起きてしまった時の収拾である。それが極めて不適切で世間の怒りをかうものだった。園長や副園長が児の名前を何度も間違えた挙句、ヘラヘラ笑いながら会見したという。あり得ない態度である。しかも責任を取って園長が退任したが、後任はその息子で世襲だという。

准看護学校パワハラ大量退学事件は、学校法人愛輪学園が2016年に設立した准看護師養成校である大橋医療専修学校で、学年37人中18人が一年次で退学したという。その原因は設立者で看護師である大橋元理事長の激しいパワハラ発言だったと、週刊文春がスクープした。パワハラ的な説教ばかりでまともな授業になっていなかったことも多かったといい、そのためか卒業するのはわずか半数という。

厚労省によれば准看護学校の退学率は10%代前半なので、半数退学は異常である。そもそも自分の事業の客でもある生徒を害虫だのカスだのと言い放つ人格精神、それで医療専門職教育などと、認可した行政の責任も問われはしないか。

国は一部医師会等の反発抵抗を受けながらも、准看護師制度廃止と(正)看護師への移行を進めている。准看護師は中卒でも養成所入学でき、都道府県知事資格である。そのため基礎教養の不足を補うため「国語」「音楽」等の教科にも時間を割き、専門教育が不足する。一方、看護師は国家資格である。理解見識ある神奈川県内の医師会などは准看護学校を自ら廃止する時世に、医療が高度化している首都圏で准看護学校を新設というのも違和感が大きい。

さらにはこの10/27には週刊文春がさらにスクープ、元理事長が運営する老人ホームで、元理事長が資産家の認知症の入居者と養子縁組していたという。何ともダークである。

近年社会問題化している高齢ドライバーの暴走死傷事故は枚挙にいとまが無いが、上記二件の事件と時期を同じくして静岡県富士市の死傷事故が起こった。80代のドライバーが3件の接触事故を起こした後、交差点で信号待ちの若い男女に突っ込み殺傷したという。

ドライバーは事故を起こしたら止まって自他の被害を確認し通報等するのが当然かつ法的義務である、にも拘わらず構わず走り続けての事故である。道徳心も常識も無い身勝手粗暴な者だったのでないなら、認知症や本来運転すべきではない病気、急病だったのか。

池袋暴走死傷事故でも明らかにされたが、高齢ドライバーは事故を起こしても資料リンクのようにアクセルを踏み続け被害を拡大させる。「止まる、通報等処置する」判断ができない時点で運転適性は無い。にも関わらず免許返納が増えたとは言え「不便だ」「権利だ」という「大きな声」で、高齢ドライバー暴走死傷事故はとどまるところを知らない。そして本稿脱稿直前、福島で97歳の「上級国民」と言われた男が歩道を軽自動車で暴走し死傷事故、犠牲者は二児の母との報があった。

これら(彼ら)に共通するのは、自身の欲求が良識や道徳を踏みつぶし、他人や社会に迷惑や危害を与えないよう自制できないことだ。道徳観念、良識、規範意識が低い、欠けているとしか見えない。駅での・駅員への暴力も、団塊世代以下の60過ぎの前期高齢者によるものが多いという。次の世代を導くべき年長者であるべき60歳から70歳前後「イマドキの年配の特徴は、自己中心的で自制できない」ことなのか。

子供たちや病者など弱者を護り、成長や回復を援ける人を教え導くべき立場の者が、道徳規範無く自ら「悪い手本」とは由々しきことではないか。筆者が子供の頃は小学生の「なりたい職業」の上位に総理大臣があったと記憶しているが、今その文字は無い。「息を吐くように嘘をつく」「ソンタクさせて人を牢屋に放り込み自殺させる」そんなものになりたいと子供たちは思わない、善悪判断しているのなら希望が持てる。

ロールモデル、見習うべき人間像という概念がある。国のトップや企業学校のトップそして年長者が、不道徳で規範に外れた恥ずべきことを平気で為す、それは私利私欲我欲ゆえのこと、そして志立て将来に夢膨らませる人たちが失望し去っていく。上に立つ者たちが、模範ではなく「悪い手本」。実に嘆かわしく悲しき、我が国、日本の現実ではないか。

失われた30年、特にアベノミクス10年は道徳規範までも失った10年と後世記憶されるのはまだしも、まるで「北斗の拳」の世界のように道徳規範など無い、大陸の国のように権力暴力だけが支配する世の中に、よもや我が国が落ちぶれて良いのか!?

規範意識、道徳と言わずとも自制は、この国ではもう失われたのだろうか。ドーハでのサッカーでは「ロッカールームが飛ぶ鳥跡を濁さず」と武士道の国として世界から称賛された、なのに我が国の指導者層は、如何であろうか。

ふと映画「山本五十六」を想い出した、カレイの煮つけを家長たる五十六が取り分け、子供たちから渡していく。その後真珠湾攻撃で奉祝ムードのとき、妻は鯛の尾頭付きを出したが、五十六は手を付けなかった、もちろん、勝手に手を出す者など居ない。。。そこに日本の道徳規範の基を見た想いだった。

山本五十六は会津ほか奥羽越列藩同盟と結んだ新潟・長岡の人である。長岡藩は「米百俵」として、刹那的利益ではなく未来を見据えた教育投資を成した逸話で知られる。そして筆者ゆかりの会津は、「什の掟」をもって幼少から道徳規範意識を少なくとも武家の子弟には骨の髄まで叩き込んでいたと知られ、及ばずながら筆者も「什の掟」を夕食前に暗唱させられて育っている。近年知ったが、子供たち同士が掟について語り合い検討することも認められていたといい、会津若松市では「会津っ子宣言」として子供たちに教え継がれている。

今、ウクライナをプーチン・ロシアが侵略し世界が核戦争の危機にあり、中国北朝鮮ミャンマーでは政権が民主的勢力を弾圧している。そのとき、専守防衛と武士道精神で世界からリスペクトされてきた我が国、日本は、その精神を失い心乱れていて、良いのだろうか。

【参考文献】