政権に縁がない共産党:チエを出せ(屋山 太郎)

志位和夫委員長
日本共産党 南関東ブロックtwitterより

会長・政治評論家 屋山 太郎

最近、日本共産党の内外から党勢衰退の責任を問う3冊の批判本が出た。3冊とも党首選挙をやれと主張しており、1人は党首選挙に立候補する覚悟を明らかにしている。志位和夫委員長は党首選びは「党内の民主集中制の原則で行われている」(1月10日付読売新聞)と述べている。民主集中制は派閥を作らない原理として有効だというのだが、「民主集中制」をどう民主的に行うと言うのか。

この「民主集中制」のおかげで志位氏は20年間も党首の座に居座り続けることができた。党勢は21年に衆院10議席(2議席減)、22年に参院11議席(改選4議席+非改選7議席、2議席減)で衰退の傾向を示している。

今回、3冊の批判は特に党首に向けられている。少し人事の風通しをよくしたらどうかというものだが、党首を公選制にしたら、そこで一気に派閥政治が活性化するかもしれない。1933年12月の日本共産党スパイ査問事件では、首謀格の宮本顕治(後に書記長)と袴田里見という大物が捕まった。連合赤軍のリンチ事件(71~72年)では、仲間内のリンチで12人も殺された。

リンチと内ゲバは紙一重なのである。共産党の歴史を思い起こす執行部は「民主集中制」に手を付けることこそが危険と思い込んでいるのではないか。

日本共産党が衰退の兆しを見せているのは共産党が目指す社会が共有されないからではないか。自衛隊の解消、日米安保の廃棄、海外派兵反対ぐらいしか庶民はイメージできない。政治中立という割には友人も少なすぎる。

1965年、中国文革の時代に私は時事通信社の特派員としてローマに派遣された。西側最大の共産党勢力がどうやって政権を奪うのか。私はワクワクしてローマに赴任したが、すぐに悟ったのは一本調子では政権は取れないという現実だった。

1956年にハンガリーの自由化要求をソ連(現ロシア)が武力をもって鎮圧した。イタリアに亡命してきたハンガリー人は約100万人と言われたが、彼らは極度の共産党嫌いだった。当時イタリア共産党がやっていたのは「我々はロシアの共産党とは違う」という宣伝だった。だがどの家族にもハンガリー人が1人は転がり込んでいるような有様だったから、反共感情は収まらなかった。

12年後の68年、ソ連は今度はチェコに侵攻して民主化運動を叩いた。そのチェコからの亡命者もヨーロッパ中に撒かれた。西側共産党にとっては大打撃で「ウチの共産党は違う」ところを示すしかなかった。

70年代から欧州の共産党に浸透してきたのは、ユーロコミュニズムという新思想である。ソ連が瓦解する寸前の80年代には、欧州の共産党は様変わりしていた。民主集中制をやめ、党首公選制を取り入れたりして新しい政党に生まれ変わった。共産党は普通の政党になり、連立政権の一員として政権に加わるのが一般的となった。

一方、日本共産党は政権に全く縁がないままだ。これだけ社会に困難が広がっている時代だ。日本共産党も知恵を出せ。

(令和5年1月25日付静岡新聞『論壇』より転載)

屋山 太郎(ややま たろう)
1932(昭和7)年、福岡県生まれ。東北大学文学部仏文科卒業。時事通信社に入社後、政治部記者、解説委員兼編集委員などを歴任。1981年より第二次臨時行政調査会(土光臨調)に参画し、国鉄の分割・民営化を推進した。1987年に退社し、現在政治評論家。著書に『安倍外交で日本は強くなる』など多数


編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2023年1月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。