日銀総裁人事に思うこと

とにかく政治問題化しないことを望む。

先日、立憲民主党の国対ヒアリングに呼ばれて、異次元の金融緩和の検証という題でお話をさせていただいた。

そこで強調したのは、今、日銀は本当に危うい局面にいる。ここを無事に乗り切ることが、日本銀行にとって、日本の金融市場にとって、いや日本全体にとって、もっとも重要なことだ。そして、その危機とは、この10年でもっとも困難なものであり、非常に微妙な繊細な状況である。

このような状況では、日本銀行への世界からの信頼性、政策の破綻なき継続性が何よりも必要である。それにもかかわらず、国外の投機筋だけでなく、日本国内のメディアや有識者そして、政府自身さえもが、日銀の現在の政策について大きな不満があることを陰に陽に表明している。

継続性、変わらぬ信頼が必要な時に、これまでの10年の政策を自ら否定するとも見える政策の大転換が必要とされる局面になっている。中身としての政策の断絶が求められ、組織としての政策的な継続性を示しながら、中身は断絶を図らなければならない。きわめて困難な薄氷の道を進まなければいけないのである。

そして、それがよりによって、日本銀行の総裁、副総裁の交代の時期とまさに重なってしまっている。もちろん、はるか以前に、政策転換をしておくべきだったし、そうしておけば、なんということのない、欧米の中央銀行と同じく、世界経済が大きく変化して、それに遅ればせながら追随する、そして、遅いぞ下手くそ!と野次られれば済む程度の失敗ですんだのだ。

しかし、いまさら言っても仕方がない。やるしかない。転換するしかない。それは執行部交代のタイミングに完全に重なった。だから、失敗確率は上がり、危険度は上がり、失敗した時の被害も最大になるだろう。

しかし、しかし、やるしかない。

このような場面で、我々にできることはないか。黙って、日銀を見守るしかない。

どんなノイズも、振幅され、ノイズの振幅だけで大きな橋が崩壊することが物理的にもあるように、日銀を日本経済を崩壊させるかもしれない。

だから我々、つまり、世論もメディアも有識者もノイズを立てず、じっと見守るしかない。

政治は、戦うなら水面下で音を出さずに戦い、波も風もまったく起こさずに、流れていくように、日銀新総裁が、金融政策を継続していくことを祈るしかない。

そういう気持ちで、ヒアリングでお話をさせていただいた。

補足すると、まず、黒田総裁自身はリフレ派ではない。リフレというものは、考え方としても、政策としても100%間違っているし、実際に日本経済を傷めつけた。また量的緩和自体は、私個人としては常に反対だが、状況によっては、危機対応としてありうる政策ではあり、黒田総裁はそういう考えで、その量的緩和を行い、その効果を最大化するため、それにレバレッジをかけるために、異次元にし、ショック療法として行ったのだ。

だから、黒田総裁の政策は間違っていた可能性はあるが(私はそう思うが)、不当だったとか、人物として不適格だったとかいう議論はありえない。

第二に、日本銀行の独立性が強すぎる、という議論はない。今回の一番の問題は、世論のムードが、リフレという議論をネット中心に蔓延らせ、経済学も経済自体をも理解していない政治サイドが、そのムードに乗って、リフレという、まっとうな経済学界の中には存在していなかったものを政策の中心の考え方として採用してしまったことにある。

そして、その状況を見て見ぬふりをしたまっとうな経済学者、有識者達が問題を解決しようとせず、放置した、不作為の罪がある。さらに、有力な学者たちも米国の著名経済学者たちとともに、金融緩和を極端に拡大するということであれば、理論が間違っていても、政策の実験として興味深いから、無責任にそそのかして実験を継続させた。彼らは、無責任無邪気罪の罪に問われるべきである。

したがって、これらの問題は、日銀の独立性から生じたのでは全くなく、日銀の外側、外野の問題、とりわけ、政治がリフレ派を政権に取り込んだことによる問題で、政治の介入が金融政策をひずませたのであり、むしろ、日銀法の改正が必要というならば、より政治からの独立性を強める方向に行うべきなのである。