世界の潮流から取り残される日本の人文・社会科学

衛藤 幹子

前回の投稿で、世界水準からみた日本の人文・社会科学系学問の研究力の低さに言及した。

自然科学の足を引っ張る人文・社会科学
学術会議問題、未だに燻り続けている。政府と会員の間に挟まれて奔走する梶田隆章会長が気の毒でならない。世界最高峰の科学者には本来の場でこそ活躍してもらいたい。 ところで、梶田会長は小林鷹之科学技術担当大臣に宛てた昨年7月25日付...

学問の水準がランキングだけで計れるはずもないが、数値は客観的で、分かりやすい尺度であるうえ、論文数が増えれば、優れた研究が生まれる確率も上がる。自国の研究水準を知る一つの指標ではある。さらに、学問は競争ではない、という声もあろう。

しかし、研究力は国家の持続可能な発展の基盤であり、国家間の研究開発競争は激しさを増している。わけても、資源小国かつ少子高齢、人口減少社会の日本にとって、研究力は国の生命線、逃げるわけにはいかないのである。

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研究力というと、自然科学分野ばかりが注目されがちであり、人文・社会科学の研究水準、わけても国際競争力が問題にされることは余りない。だが、日本学術会議の人文・社会科学の役割とその振興に関する分科会によると、人文・社会科学は「自然科学系の学知とも、学術を構成する不可欠な要素として、相互依存的ないし相互補完的な関係にある〈中略〉諸科学間の連携の必要性は明白」なのである(『学術の総合的発展をめざして—人文・社会科学からの提言』2017年6月1日)。

自然科学と人文・社会科学は、言わば学問における車の両輪、後者の低迷はやがて後者にも及ぶはずだ。日本の自然科学を再浮上させるためにも、人文・社会科学分野の国際競争力向上が求められる。

日本の人文・社会科学の低迷の要因は何か。浅学非才には到底論じ切れないが、経験から思い当たる節もある。この分野の内向き志向である。

自然科学がすでにそうであるように、人文・社会科学においても論文や学術書は英語で書き、国際的な読者を意識するというのが、世界標準である。非英語圏でも博士論文を英語で書くのが一般的であり、たとえば私が学位を取ったストックホルム大学でもスウェーデン語は特別な場合に限られていた。

社会科学の学位論文の分量は大体10万語くらい。論旨の通った10万語の論文を英語で書き上げるのは、非英語圏の研究者にとっては、大変な訓練になる。日本でも、自然科学系は英語の博士論文が普及しているようなので、人文・社会科学系大学院でも英語の学位論文を積極的に推進してはどうか。若手研究者の国際学術雑誌への投稿の垣根が格段に下がるはずである。

アイデアやロジックもさることながら、修辞や語彙力が求められる人文・社会科学分野の英語の論文/学術書においては、当然英語圏の研究者が有利にはなるが、非英語圏の国も決して負けてはいないのである。

たとえば、日本が20位(2021年)であった社会科学分野の論文数の1位から19位までを順に挙げると、アメリカ、イギリス、中国、スペイン、オーストラリア、ドイツ、カナダ、イタリア、ロシア、インド、ブラジル、オランダ、フランス、ポーランド、南ア、韓国、スウェーデン、トルコ、インドネシアであった(SJR)。英語はもはや障壁ではないのである。

人文・社会科学の研究者が学術振興会の科学研究費などの助成金で研究をすると、その成果を本や報告書にまとめて公表する。書籍の出版は科研費で賄えないが、別途「研究成果公開促進費」という事業で出版ができる。

確かなデータはないが、おそらく毎年、この事業によって多数の学術書が出版されているはずである。これらの書は学術的価値があり、出版業界にも貢献するだろう。しかし、一体どのくらいの人に読まれているのか。半分とは言わないまでもせめてその4分の1でも、英語でまとめ、国際学術誌への投稿、さらには英語の学術書として出版されれば、学界の国際的地位は格段に上がるはずである。

研究成果を世界に向けて発信したいと考えていたり、すでに実行していたりする人文・社会科学の研究者も少なくないのかもしれない。だが、研究力の底上げは個人の努力だけでは難しい。まず、学界に世界発信の機運を醸成する必要がある。学界文化の変容には大学補助金や評価、科研費等研究費配分などによる文科省の政策誘導が有効かもしれない。

次に、意欲のある研究者への制度的な支援である。たとえば、国際雑誌投稿について投稿可能な雑誌の選定から論文受諾までの一連のプロセスをサポートして論文採択率の向上を図る。また、英語論文ではネイティブによる質の高い校閲が不可欠なので、費用の全額補助など。

研究成果を英語で世界に向けて発信する、それが学術をめぐるグローバル・スタンダードである。