2人のユダヤ人と「集団的罪悪感」:ヴィーゼンタールとフランクル

オーストリアには多数のユダヤ人が住んでいたが、ナチス・ドイツに1938年3月に併合された後、多くのユダヤ人が強制収容所に送られ、そこで亡くなった。オーストリアは第2次世界大戦の敗北後、占領国4カ国(米英仏ソ)による10年間の統治期間を経たのち、再独立を獲得した。ナチス・ドイツから逃れるために海外に亡命していたユダヤ人の一部はオーストリアに戻ってきたが、大多数のユダヤ人はオーストリアの地を再び踏み入ることはなかった。

ナチ・ハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタール(1995年3月、ウィーンのヴィーゼンタール事務所で撮影)

1950年代のヴィクトル・フランクル(ウキペディアにて)

そのオーストリアには戦後、当方がぜひとも会いたいと思っていたユダヤ人が2人いた。2人とも既に亡くなったが、1人は“ナチ・ハンター”と呼ばれ、終戦後海外に逃げたナチ幹部たちを追跡したことで有名なサイモン・ヴィーゼンタール(Simon Wiesenthal)だ。もう1人は神経科医で精神科医だったヴィクトル・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl)だ。両者ともホロコーストから生き延びたユダヤ人だ。

ヴィーゼンタールは1908年、ウクライナのガラシア生まれ。父親は第1次世界大戦中に死亡。ガラシアは戦後ポーランド領土に併合された。大学卒業後、建築家になったが、ナチス軍がポーランドに侵攻、家族と共に強制収容所送りに。45年6月、米軍によってマウトハウゼン強制収容所から解放された。その後の人生を、世界に逃亡したナチス幹部を追跡することに費やした。1100人以上の逃亡中のナチス幹部の所在を突き止め、拘束することに成功している。そのため、同氏はナチ・ハンターと呼ばれるようになった。反ユダヤ主義の言動を監視する「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」(SWC)は彼の名前からとったものだ。2005年死去。

ヴィーゼンタールとは生前、2度会見することができた。文藝春秋社の月刊誌「マルコポーロ」がホロコーストの記事を掲載し、その中で「ガス室」の存在に疑問を呈したことが契機で、同誌が廃刊に追い込まれたことがあった。当方はヴィーゼンタールの見解を聞くために事務所で会見した。同氏はマルコポーロ誌事件について、「ユダヤ人社会に大きな痛みを与えたばかりか、日本・イスラエル両国関係にも将来マイナスの影響を与える恐れがある」と警告した。ヴィーゼンタールの警告は日本でも大きく報道された。

ヴィーゼンタールと会見した時、彼の口からもう1人のユダヤ人の名前、フランクル博士が飛び出した。ヴィーゼンタールは事務所の壁に飾られていた名誉博士号を当方に誇らしげに見せながら、「自分は20以上の名誉博士号を得たが、私以上に名誉博士号を得たユダヤ人がいる、それはフランクルだ」と述べた(当方は当時、フランクルについて余り知らなかった。フランクルがまだ生きていた時、一度でも会見できていたら良かったと今は後悔している)。

フランクル(1905年~1997年)が第2次世界大戦中のアウシュヴィッツを含む4つの異なる強制収容所での体験をもとに書いた著書「夜と霧」は日本を含む世界で翻訳され、世界的ベストセラーとなった。独自の実存的心理分析(Existential Analysis)に基づいたフランクルの「ロゴセラピー」は世界的に大きな影響を与えていた。

フランクルは、「誰でも人は生きる目的を求めている。心の病はそれが見つからないことから誘発されてくる」と分析している。強制収容所で両親、兄弟、最初の妻を失ったフランクルだが、その人生観は非常に前向きだ。彼の著書「それでも人生にイエスと言う」やその生き方に接した多くの人々が感動を覚えた理由だろう。

フランクルは強制収容所から解放された後、「全てのドイツ人が悪いのではない。実際、強制収容所でもいいドイツ兵士がいた」と語り、ホロコーストに対する「ドイツ人の集団的罪悪感」(collectiveguilt)を否定する発言をした。そして、ナチス・ドイツの戦争犯罪に関与した容疑を受けていたクルト・ワルトハイム大統領(1918~2007年、元国連事務総長)から1988年、ホロコーストの生存者としてオーストリア共和国への奉仕の星付き大銀メダルを授与されたことが報じられると、世界のユダヤ人からフランクル批判の声が飛び出した。

ヴィーゼンタールも世界のユダヤ人から批判を受けたことがあった。ワルトハイム大統領がナチス・ドイツの戦争犯罪に関与していたとして激しい批判の声が上がっていた時、ヴィーゼンタールは、「彼は自身の過去を偽って語ったが、ナチス・ドイツ軍の戦争犯罪に関わっていた事実はない」と述べたからだ。ユダヤ人で、ホロコーストを体験した著名な人物が、ワルトハイム氏は戦争犯罪に関与していないと発言することは当時、大変な勇気がいった。世界ユダヤ協会を筆頭に、世界の主要メディアはワルトハイム氏の戦争犯罪を激しく批判していた時だ。ワルトハイム氏は大統領再選を断念せざるを得なくなった(「ヴィーゼンタール氏の1周忌」2006年10月2日参考)。

フランクルが終戦後、ナチス・ドイツの戦争犯罪に関連した「ドイツ人の集団的罪悪感」を否定したことを改めて思い出す。戦後80年余りが経過したが、今なお世界的に反ユダヤ主義が席巻している。ユダヤ人であるという理由で、多くのユダヤ人が批判にさらされ、時には迫害されている。フランクルは「ドイツ人の集団的罪悪感」を否定することで、無意識に「ユダヤ民族の集団的罪悪感」を超克しようとしていたのかもしれない。

フランクルとヴィーゼンタールはほぼ同時代に生き、それぞれの分野で世界的な歩みをしてきたユダヤ人だ。同時に、ユダヤ社会から生前、批判の声を聞かざるを得なかった点で似ている。なお、3月26日はフランクルの118歳の誕生日だった。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年3月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。