日露戦争由来「必勝しゃもじ」ウクライナ持参に見る岸田首相の戦争への「無神経」

首相官邸HPより

先週、岸田首相が突然ウクライナを訪問、首都キーウまで行ってゼレンスキー大統領とも会談した。その際、お土産に、宮島の「必勝しゃもじ」を持って行ったことについて、国会でも議論が行われたりしている。

私自身、広島は小学校3年から中学2年まで暮らした地であるし、そのあと両親は広島に住み着いたこともあり、私にとって広島は郷里だ。その私が、この「必勝しゃもじ」の話を聞いた時にどう思ったか。

広島人にとって、この「必勝しゃもじ」が一番多く使われるのは、高校野球などで広島のチームの応援をするときだ。まさに「応援グッズ」である。このしゃもじで「飯を取る」ということから、「敵を召し取る」という意味で応援に使う、というのが一番馴染みがあるもので、そのほかに、店などに商売繁盛などを願う「縁起物」として飾ることもある。

そういう高校野球などの応援グッズのようなものを、ロシアと戦争を行っている当事国のウクライナに持って行くというのは非常に違和感がある、とまず思った。

戦争と高校野球などのスポーツの応援とでは全然意味合いが違うではないか、というのが最初の率直な印象だ。そういう最初の印象をツイートしたところ、それに対して、以下のようなツイートで反論があった。

必勝とは文字どおり必ず勝て、という意味で、これは「日本がウクライナを支持し勝利を願う」という強いメッセージです。必勝しゃもじの由来は日露戦争ですから、尚更です。これをさりげなく縁起物を装ってウクライナに渡すというのは、この上なく見事な外交だと思います。

私は、正直なところ、「必勝しゃもじ」の由来が日露戦争だということは知らなかった。改めて調べてみると、確かに日露戦争の時に、戦勝を願う兵士たちが宮島にこのしゃもじを奉納した、そして実際に日露戦争で日本が勝ったということで、必勝を実現する、敵を召し取る「必勝しゃもじ」ということになった、というのが由来だったことが分かった。

もともと、そういう由来で「必勝しゃもじ」になったことは今の広島人にはあまり認識されることなく、「応援グッズ」や「縁起物」として使われてきたというのが、実際のところだろう。

では、岸田首相は、多くの広島人の感覚と同様に、「応援グッズ」「縁起物」として、ウクライナに「必勝しゃもじ」を持っていったのか、それとも、日露戦争での兵士の戦勝祈願と実際に勝利したことに由来するということで、今ロシアと戦争を行っているウクライナに持っていったのか。

もし、前者だとすれば、悲惨な戦争の最中に、応援グッズをウクライナにもっていくというのはあまりに軽薄だ。一方、先程のツイートで書かれていたように後者だとすると、ぞっとする程恐ろしい行動だ。それを知れば、広島人は、どう受け止めるだろうか。

多くの日本人にとって、広島の過去については、終戦の直前の忌まわしい原爆投下で膨大な人が犠牲になった時点以降の認識しかないだろう。それ以前の広島がどういう都市として発展したのか、戦前の日本にとって、広島がどういう位置づけだったのか、ということを知る人はあまりいないだろう。

広島は、日清戦争の時代、戦争の最高指導機関である大本営が東京から広島に移され、明治天皇も滞在した。日清戦争の戦費を審議する臨時帝国議会を広島で開催するため、仮の国会議事堂も建てられた。日露戦争以降、太平洋戦争に至るまで、広島はまさに、戦争に向けての拠点である「軍都」として発展したのだ。

そういう広島の宇品港に陸軍の船舶司令部があり、上陸用舟艇などをそこで建造していたのだが、それがいかに陸軍にとって重要な拠点であったか、そこでの司令官たちの苦悩を描いた【暁の宇品】という本がある。ジャーナリストの堀川恵子さんが書いた大変優れたノンフィクションだ。

私の両親が住んだ、そして、私自身も司法試験受験生時代を過ごした実家が宇品にあったこともあって、この本のタイトルに関心を持って読んだ。陸軍船舶司令部が、太平洋戦争においても重要な位置づけであったことがよく分かった。

そして、軍都広島からは、日清・日露の戦争を始め、大陸での戦争へも多くの出征兵士が送り出されていった。そのような軍都広島の歴史の結末が、あの忌まわしい原爆投下だったのだ。

アメリカが日本に原爆を投下するにあたって、投下地の候補がいろいろあり、最初は京都も候補地の一つだったと言われている。実際に原爆が投下された広島・長崎のうち、長崎は、もともと小倉に投下する予定だったのが、天候の関係で急遽長崎になったという経緯があったと言われている。しかし、広島はそうではない。

広島は最初から原爆投下の地として選ばれていた。それは、広島が重要な軍の拠点だったからであろう。

そういう意味では、広島にとって、広島市民にとって、原爆投下という悲惨な戦争の結末の起点となったのが、日清日露の戦争であり、それ以降の「軍都」としての発展だったのだ。

日露戦争での「必勝しゃもじ」が、出征する兵士の必勝祈願の奉納で使われたのが起源だとすると、被爆地広島にとって、その「必勝祈願」は、まさにそういう広島の悲惨な戦争への道を象徴するものだったことになる。そいういうことはあまり認識されていないから、「必勝しゃもじ」を「応援グッズ」として、カチカチと無邪気に打ち鳴らすこともできるのだ。

岸田首相が、日露戦争での「必勝しゃもじ」の由来を知った上で、敢えてそれを当時ロシアと戦った日本と重ね合わせて、今ロシアと戦っているウクライナに持参したとすれば、私は、無神経さに唖然とする。

しかも、日露戦争でロシアと戦った日本と、今、ロシアと戦うウクライナを同じように考えること自体も、全く理解できない発想だ。

ウクライナを支持する国際世論というのは、ウクライナはロシアから一方的に侵略された、武力によって国土を侵奪された。そのロシアと戦うウクライナは正義だ、だから全面的に応援すべきだ、というものだろう。

日露戦争でロシアと戦った日本は今のウクライナとは全く違う。日露戦争の当時、日本は朝鮮半島を侵略して植民地にしようとし、それに関してロシアと対立していた。まさに帝国主義的な野望がぶつかりあったことで日露戦争に至ったのだ。

その戦争は、第1次ロシア革命が起こっていたロシアは戦争継続が困難となったことで、ポーツマス講和条約締結で終戦になった。しかし、この日露戦争では、多くの日本の若者たちが戦死した。大きな犠牲を代償にして、日本の勝利で終わったのだ。

歌人・与謝野晶子が、日露戦争の激戦地にいる弟を思って詠んだ歌がある。

『君死にたまふことなかれ』

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。
堺の街のあきびとの
老舗を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを・・・

日露戦争は、日本人が「不敗神話」を信じることにつながり、日本海海戦での大勝利は、日本海軍に、その後、時代遅れの「大艦巨砲主義」をはびこらせた。そして、それが無謀極まりない日米開戦に導き、沖縄戦への戦艦大和の「特攻出撃」、神風特攻隊による多くの若者達の犠牲、そして、広島・長崎の原爆投下という悲惨な結末につながっていくのである。

そういう歴史からは、広島人の意識としては、日露戦争の出征兵士の必勝祈願に由来する「必勝しゃもじ」という発想は出てこない。単なる「縁起物」「応援グッズ」だからこそ、広島人の生活習慣に溶け込んでいるのだ。

岸田首相が、帝国主義的な領土拡大の最中にあった日本がロシアと戦った日露戦争での「必勝祈願」に重ね合わせ、同じようにロシアと戦っているウクライナに「必勝しゃもじ」を持参したのだとすれば、岸田首相の無神経さは、原爆投下の被害に晒された広島人の「平和を祈る心」とは凡そ相容れないものである。

広島市民に選挙で選ばれながら、広島市民とは全く思いを共有していない「東京出身の政治家」だからこその発想なのではないだろうか。

このような首相に国を委ねていくことが、今後の日本にどのような将来をもたらしていくのか、まさに背筋が凍る思いだ。