新しい日本像・日本の「風景」でシン日本人を創る

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1.国際競争力からみた重点移動(政治経済→文化スポーツ)

ドイツやスペインを撃破し日本が奮闘したサッカーW杯ほどは盛り上がらないだろう、と勝手に思っていた野球のWBCだが、日米対決の決勝戦を僅差で制し、大盛況のうちに終わった。

もはやTVが全ての時代ではないし、放送時間帯の問題もあるので(W杯は日本時間の深夜放映が多かった)一概に比較はできないが、世帯視聴率は全戦平均で40%を超えてサッカーW杯の数字を上回り、大谷がトラウトを三振に仕留めた最後の場面は、平日の昼間であるにも関わらず50%近い視聴率だったようだ。

円の実効レート、人口、競争力ランキング、主要論文引用回数、、、と最近、どんな経済指標・社会指標を見ても、国際的な凋落ばかりが目に付き、もはや経済大国・技術大国とも言えない我が国であるが、サッカーにしても野球にしても、少し前のラグビーW杯での活躍やオリンピックでのメダル獲得数にしても、まさにスポーツ大国となりつつある。その名のとおり、日の昇る国という勢いだ。

目を少し転じてみても、音楽や映画や演劇などの世界でも、国際的なコンクール等での日本人の活躍がかなり目立つ。その他、食の世界に目を向けてみると、例えばミシュランでみると、ここ数年、都市別で断トツ1位の東京の星の数は、2位のパリの約2倍である。京都と大阪も、5位以内の常連であり、星の数ではパリと大差はなく、日本の強さは圧倒的である。

総体的にみて、周囲に言われるがままに「良い学校」(偏差値が高い学校)に入りなさいとばかりに盲目的に受験勉強をさせられてきた「エリート」たちの国際競争力は総じて低く(主に政治や経済の世界)、そうした「学校教育」の枠組みの外で生き生きと個性を伸ばしてきた人たちの国際的な評価が凄く高い。

PDFファイルで有名なアドビ社の調査などが有名だが、日本・東京は、世界でダントツに「クリエイティブな国・都市」と認識されているが、そのクリエイティビティ(想像力→創造力)は、偏差値教育の外側にいる方々が主に生み出している。

2.自信のない、しかし優しい「日本」

ここ数十年の日本を内外から眺めている外国人、日本の背中を追いかけてきて、今や抜こうとしている中韓などのアジア勢の知人や、かつての日本と色々な意味でやりあってきたアメリカ人などに話を聞くと、彼らの多くは上記の「エリート」日本人たちと付き合うことが多いためか、日本人は元気がなくなった、と多くが思っているふしがある。

昔の〇〇社の社員は、もっと自信があった、とか、昔の××省の官僚は、もっと面白い人が多かった、などの類の言説を聞くことが多い。確かに、彼らは、定点観測的に、時代を経て同じ肩書の部署・部局にいる日本人を見続けているので感ずるところがあるのであろう。

確かに、私が通産省(当時)に入省した頃の役所の「課長」の権威は、今、同期の多くが「課長」をしている中での現状と比べて実感するが、一言で言って、確実に落ちている気がする。言ってみれば「自信無き上司」が増えているのだ。

たまにあるパワハラ事件がかつてより全然大きくクローズアップされてしまうので、反射的に見えにくくなっているが、表現は良くないが、最近は、パワハラ出来るほどの自分への信頼がある人が圧倒的に減っている(もちろん、パワハラは良くないが)。

少し前は、ブラック職場・パワハラの嵐だったので、多くの人がこれはヤバいと組織を脱出していったが、最近は、抜けられては困ると企業側が様々な「サービス」を若手に展開するようになっている。最近では、若手の要望をしっかりと聞く、1on1とか、その中での「メンタリング」「傾聴」のレベルを超えて、若者に教えを乞うという(上司が若手に教えてもらうという)「逆メンタリング」などの流れもあるそうだ。

俯瞰的に状況を見ると、もちろん「傾聴」「逆メンタリング」みたいなのも実施しないよりは実施した方が良いのではあろうが、私などは、こうした動きを何となく冷ややかに見てしまう。本質的に、若者が求めているのはパワハラ的な表現ではない形での上司の「自信」であり、そこなくしてきちんとした解決はないのだろうと思う。若者は、怒られるのは嫌だが、意見してもらって(時に叱ってもらって)成長させてもらうことは、むしろ歓迎しているとも思われる。

しかし、現状(自信無き上司が「逆メンタリング」までしてもらう流れ)自体は、ある意味で自然な流れである。この自信の無さは、言ってみれば、岸田総理が以前強調していた「聞く力」でもあり、優しさでもある。上記の日本の文化力の背景に、例えば日本のアニメファンなどに典型的に感じるが、そうした日本の「平和的在り方」や優しさというコンテンツ力も見え隠れしているような気がする。

こうした背景から来るのかどうかは分からないが、上記の国際競争力のある日本人(文化やスポーツで活躍する日本人)の中にも、成績における圧倒的な強さ・自信という強さと同時に、とても日本的な優しさ・繊細さも同時に感じる(大谷選手などが典型か)。

メタ的に言えば、こうした日本的優しさ、もっと言えば弱さ・儚さのようなものに、逆に日本人はもっと自信をもって、堂々と臨んでも良いのかもしれない。「プリンシプルに拘泥しないというプリンシプル」に「絶対の自信を持つ」、みたいな形で。一見自信なく、優しく、何でも受け入れる日本の在り方に、自信をもって突き進むということが大事な気がする。

スポーツや文化の世界で活躍する日本人たちは、それを見せてくれているのではなかろうか。個々の力がものを言うメジャーリーグや欧州のサッカーに対して、日本流のチームワークの良さにも良い所がある、という風に。

3.どうする家康・どうする岸田 ~「弱さ」からの成長・真の強さ~

また視聴率で恐縮だが、大河ドラマ『どうする家康』の数字が振るわないとか意外に健闘しているとか、巷間では色々と言われている。個人的には「意外に数字が良いじゃないか」というのが実感であるが、その要因として家康の弱さに焦点をあてていることがあるのではないかと思う。即ち、現代日本の在り方に即して考えると、ダメな家康の成長ストーリーという文脈が、比較的受けているのだと感じる。

今後の展開の予想も込めてだが、弱き家康・悩める家康が徐々に成長し、その弱さをむしろ強みにしてまさに神君となり、歴史上類をみない長期の徳川幕府約260年の基礎を築くという出世・成長の物語に現代の視聴者は、共感を覚えるのではないか(逆に、高齢の視聴者は違和感が強いかもしれない)。

この弱き家康の成長ストーリーに政治を当てはめて考えると見えてくるのが、岸田政権の支持率の不思議な上昇である。最近、大手メディア各社の支持率調査が出たが、ここに来て岸田政権の支持率が軒並み上昇している。NHKと日経に至っては、支持率と不支持率の逆転(支持率の方が良い)というところにまで押し戻している。

先日(28日(火))、茨城放送ダイバーシティニュースでの政治コメントで詳述したが、そういう状況の中で、ここ数日内の衆院解散説まで飛び出している。確かに、景気動向や野党の準備状況、上述の支持率上昇その他を考えれば、解散説もさもありなんだが、個人的には、さすがにそこまで(3月~4月頭の解散)の決断はないと思っている。しかし、それにしても、ここに来て、そんな大胆な決断をあの岸田総理がするかもしれない、という噂が飛び交うほどに、岸田総理の「強さ」が前面に出てきている。

その前の菅政権が「携帯電話値下げ」「不妊治療の保険適用」「ワクチン100万回/日」などの果断な政策を実現していたのにくらべ、岸田政権は1年たっても「何も動いてない」と揶揄されるのが常であった。ところが、1年を過ぎたあたり(昨年末)から、岸田総理は、立て続けに防衛費増額、安保三文書改定、先日のウクライナ訪問など、割と大きな決断をして、その実現に動いている。安倍政権や菅政権などであれば、大きな抵抗があって進まなかったとも思われることが、割と順調に進んでいるように見える。

自信がなく、優しい、「聞く力」だけであった岸田総理が、成長して決断を繰り返している、という「どうする家康」的成長ストーリーに、日本の絶頂のバブル時代を詳しく知らない中年・若年層を中心とした国民がある程度の共感を示しているとすれば、理解できる現象ではある。

4.ジャパニーズ(Japanese)からニッポニーズ(Nipponese)へ

かつてのギリシアは、軍事や経済の強国から、やがて相対的には、多くの詩人や学者を生み出す科学・文化系の大国となり(ラテン語のローマ人が、現在の英語的にギリシア語を学んで、ギリシア人家庭教師などを重宝したように、文化的な影響力は国力凋落後も大)、その後は完全に没落していった。

スポーツや文化大国となりつつある日本、皆の話を聞くという民主的土壌が根付いている日本をどう「自信を持って」残すか。つまり、世界がうらやむ日本を信じる人たち、国籍という意味でのジャパニーズ(Japanese)ならぬ、日本のファンであり日本的あり方と共に歩みたいと考えるニッポニーズ(Nipponese)たちをどう新しく作って行くかが今問われている気がしてならない。そうでないと、かつて没落していった世界の大国と同じになってしまう。

経済力を失いつつあり、弱弱しく、自信なく、常に「どうする?、どうする?」とおびえるだけのひ弱なエリート的日本人。バブル期以降に成人となった大人たちを中心とした「優しい」だけの聞く力の日本人。そうした我々こそが、ある意味逆ギレして、自信をもって、日本的あり方を構築し、言語化し、主張し、共感を呼び、日本や世界をつくり変えていく必要がある。自然の恵みや文化歴史の恩恵を感じながら。

岸田政権は異次元の少子化を主張しているが、人口を増やすことはそう容易ではないであろう。日本人の存在感は、文字通り、数という意味では減退していくことは間違いない。そして、外国人移民を増やすことにも限界がある。国籍を変えさせる、ということは容易ではない。

しかし、中国や東南アジアの方々を中心に、もちろん欧米人の多くも含め、結構な数の外国人が、①日本の優しい傾聴力のある民主的あり方(特に、中国やロシアでは、ロックダウンや強権的な経済規制、海外への侵攻姿勢に嫌気がさして国外に脱出したいと思っている層は多い)、②四季折々の自然の美しさ、③そうしたものから導きだされる繊細な優雅さが通底する様々な文化(食、工芸からアニメ・音楽など)、などに惹かれて、「日本人的」になりたいと考えている。いわば、戦前のような軍事強国、戦後のある時期までの経済大国ではない、新たな日本像に惹かれ・それを伸ばす新日本人像だ。

最近、シン~と呼ぶのが流行っているが、「シン」には、「新」はもちろん「真」や「深」など色々な意味が含まれ得るという。そうしたシン日本人たちは、国籍で考えるべきではない。国籍は、タイだろうと、ケニアだろうと、ルクセンブルクだろうと、中国だろうと、ロシアだろうと、アメリカだろうと構わない。無理にジャパニーズ(Japanese)になってもらう必要もない。新たにニッポニーズ(Nipponese)を世界中につくれば良い。

私たちのやる気と覚悟が問われている。我々が自信と理念を持てば、世界に良い関係人口が増える。さあ、どうする日本人。