「聖母マリア再臨」の真偽を調査せよ

イエスの12弟子のうち信者たちに余り人気のないというか、敢えて言及されない人物はトマスだろう。イエスが復活して弟子たちの前に現れた時、復活イエスが本当のイエスかを疑ったトマスに対し、イエスは十字架刑の痕跡である手を見せ、釘あとに指を差し入れるように諭した話は有名だ。そんなことから、トマスは疑い深い人物のシンボルとなった。教会の日曜学校で神父が語るカテキズム(教理解説)に対して直ぐに疑い、疑問を挟む信者に対して、「あなたはトマスのようだ」と揶揄われる。

グアダルーペの聖母(2023年2月13日、バチカンニュースから)

グアダルーペの聖母(2023年2月13日、バチカンニュースから)

中世時代の教会中心の世界観からルネサンス、啓蒙思想が台頭し、真理に対してもまず科学的な実証を重視する時代圏に突入してきた。21世紀の平均的な現代人はその結果、神の存在、悪魔の業など、不可視的な存在や現象に対してまず疑う傾向が強い。すぐに信じる人は「ナイーブ過ぎる」と冷笑され、疑い深い人は「知恵のある人」と評価される。現代人は「聖トマスの末裔」といえるかもしれない。

前置きはここまでにして、今回のコラムのテーマに入る。世界に13億人以上の信者を抱えるローマ・カトリック教会の総本山、バチカン教皇庁の教皇アカデミー「Pontificia Academia Mariana Internationalis」(PAMI)は13日、「世界各地で報告される聖母マリアの再臨、それに関連した神秘的な現象の信憑性を調査する監視委員会を設置する」と発表した。

同委員会は、聖母マリアの出現、流涙、聖痕などを分析し、教会の権威をもってその真偽を調べる課題を担う。バチカンからのニュースによれば、その作業は4月15日から正式に始まったという。PAMIの会長ステファノ・チェッチン神父は、「常に教会の教導職、権限のある当局、およびこの主題に関する教皇庁の施行規則に従って、聖母マリア再現のイベントの研究、認証、および正しい普及を具体的にサポートする。同研究には教会関係者だけではなく、科学分野の専門家も参加する」と説明した。

上記のバチカンからのニュースは一見、合理的で時代に呼応する対応だが、少し穿った見方をすれば、聖母マリアの再臨現象が世界各地で報告されていても、その信憑性が疑わしいケースが少なくないため、バチカン側が危機管理に乗り出したというべきだろう。

チェッチン神父は実際、「聖母マリアの再臨などで語られるメッセージが混乱を引き起こし、恐ろしい終末論的なシナリオを広めたり、教会批判を拡散することも増えてきた。世界のさまざまな地域で報告されている亡霊や神秘的な現象を正しく評価および研究するために、国内外の委員会を活性化する必要がある」というわけだ。監視委員会は運営委員会と中央科学委員会で構成され、行動範囲を拡大するために運用ネットワークが作成されるというのだ。

カトリック信者にとって聖母マリア再臨の巡礼地といえば、ポルトガルのファティマの(1917年)やフランス南部の小村ルルド(1858年)がよく知られてきた。最近では、ボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエで聖母マリアが再臨し、様々な奇跡を行ってきた。

ボスニアの首都サラエボから西約50kmのメジュゴリエでは1981年6月、6人の子供たちに聖母マリアが再臨し、3歳の不具の幼児が完全に癒されるなど、数多くの奇跡がその後も起きた。毎年多くの巡礼者が世界各地から同地を訪れてきたが、バチカンは巡礼地として公式に認知することを久しく避けてきた。

カトリック教会では「神の啓示」は使徒時代で終わり、それ以降の啓示や予言は「個人的啓示」とし、その個人的啓示を信じるかどうかはあくまでも信者個人の問題と受け取られてきた。イタリア中部の港町で聖母マリア像から血の涙が流れたり、同国南部のサレルノ市でカプチン会の修道増、故ピオ神父を描いた像から同じように血の涙が流れるという現象が起きている。スロバキアのリトマノハーでも聖母マリアが2人の少女に現れ、数多くの啓示を行っている。それらの現象に対し、バチカン側は一様に消極的な対応で終始してきた。

聖母マリアの再臨地には多くの巡礼者が殺到し、病が癒される奇跡を願う。巡礼地には若者たちの姿も少なくない。教会関係者は、「若者たちは奇跡を追体験したがっている。科学文明が席巻する今日、若者たちは奇跡に飢えている」と説明する。その一方、フェイクの再臨現象も出てきた。聖母マリアの再臨地となれば、世界各地から多くの信者が巡礼にくる。表現は良くないが、現地の教会、その地域にとって大きなビジネスとなるからだ。フェイクの聖母マリア再臨を回避するために、「聖母マリアの再臨現象の真偽を調査せよ」という課題が出てきたわけだ。

最後に、トマスの話に戻る。「復活イエス」をイエスの12弟子全てが信じたのではなく、1人の弟子が疑ったことから、「復活イエス」の話はより信憑性を勝ち得る結果となったのではないか。聖書の語り手の知恵を感じる。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年4月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。