来月1日発売予定の月刊「正論」6月号の特集「日本と核」に寄稿した。まだ発売前でもあり、詳しい内容は掲載誌に譲るが、なかで、「ロバーツ著『正しい核戦略とは何か』を監訳した専門家の発言を借りよう」として、こう書いた。
逆に現在は、核兵器を使っても全面核戦争に至らないかもしれない、人類が滅びないかもしれない、だから核を使う国が出てくるかもしれない、という危険があります。核が使われるかもしれない「核の影(ニュークリア・シャドウ)」がチラつく状況下で行われる通常戦争をいかに抑止するか、あるいはいかに戦うかということが求められていて、まさにウクライナ戦争はその例の一つなのです。(多田将著『核兵器入門』星海社新書所収の鼎談から村野将の発言)
ここでは、上記鼎談を所収した『核兵器入門』(星海社新書)を紹介したい。まずは版元グループの宣伝を借りよう。
本書では物理学者である著者が「もし東京に核兵器が落ちたらどんな被害が出るのか」などのシミュレーションをはじめ、核兵器をめぐる物理的・軍事的・政治的側面を広く解説し、最終章では政治学者の小泉悠氏、村野将氏と核兵器をめぐる最新の国際情勢について議論しました。(講談社BOOK倶楽部)
まさに「核兵器の物理的メカニズムから核開発の歴史、国際政治における核のあり方まで網羅した核兵器入門書の決定版!」(同前)である。
なかでも、「もしも東京に核兵器が落とされたら」と題した「序章」は、北朝鮮による相次ぐ弾道ミサイル発射をはじめ、「戦後最も厳しく複雑な安全保障環境の下に置かれることになった」いま(国家安全保障戦略)、必読のミュレーションとなっている。
とはいえ最新刊であり、ネタバレは避けたい。そこで以下、第4章「核兵器と国際政治 多田将×小泉悠×村野将」の鼎談から、小泉悠専任講師(東京大学)の発言を引こう。
北朝鮮なんかは正直なのではないかと私は捉えています。彼らはできることの幅がそんなに大きくないので、かなり宣言政策と実際にやることの一致が大きいのではないでしょうか。つまり北朝鮮の場合は最小限抑止なんですね。(中略)例えばニューヨークに核弾頭が落ちて一〇〇万人死ぬとか、そういうレベルの損害を与える能力を持っていれば事実上抑止として機能するだろうという考え方があって、北朝鮮はそこを目指して非常に合理的に核戦力を作っていっているな、という印象を私は持っています。
もし北朝鮮がロシア的な核戦略思想をしっかり勉強したならば、日本の対米戦争協力をやめさせるために核で脅しをかけるというやり方も考えてくるんじゃないかと思います。
核攻撃が行われるかどうかは、地震とか台風とは違って、客観的にどうしようもないというものではありません。我々はやはり、核を使う相手に働きかけて核を使わせない努力はできるので、そこは決して無力感を持つべきではないと思います。
そのうえで、こうも語る。
我々人間は肉体という同じハードウェアの上で生きている、この肉体が滅びたらおしまいだという点で、誰しもが共通言語をもった存在だと思うんですよね。だから話し合えば分かるとは思わないけれど、殺したらみんな死ぬよね、という点では話が通じる、その意味で核戦略というのは、一番普遍的な共通言語という気もするんですよ。
ややポレミックではあるが、鋭く本質を突いた指摘ではないだろうか。だとすれば、「正論」拙稿が指弾した人々は、「普遍的な共通言語」を解さない連中ということにもなろう。続けて、村野将もこう語る。
私の考えも基本的に小泉さんと同じで、冷戦が終わって以降、今回のウクライナ戦争が一番核使用の危険性が高まった戦争であることは間違いないです。ただ、核武装している国を相手にする以上は、常に核エスカレーションのリスクを考えて行動しなければいけない。さきほど話した「核の影」の話がまさにそれです。潜在的に日本に戦争をしかけてきそうな国、日本が直面しそうになる安全保障環境の上では、北朝鮮と中国はどちらも核武装国ですから、これらの国と対峙して彼らの脅しに屈しないようにする場合には、必然的に核エスカレーションのリスクを伴うわけです。
しかし、だからこそ我々も万が一の場合、日本に絶対に核を使わせないためであれば、核を使う覚悟と向き合わなければならないし、あるいは核兵器を使われたとしても我々の覚悟は変わらないんだという強い意志と、実際に立ち向かうだけの能力を持っていなければなりません。核抑止の世界というのは逆説的なところがあって、我々が覚悟を決めるほど、結果的に相手の核の脅しの信憑性が落ちることになり、核の脅威は遠ざかります。逆に、我々があまり関心を持たず無防備のままでいると、むしろそれは相手の思うつぼで、実際に核が使われなくても、「核の影」が伸びてくる中で、核の脅しに屈しやすくなってしまいます。
果たして、来月のG7サミットで議論すべきは、本当に「核兵器のない世界」(岸田総理)なのか。先進国に暮らす私たちの「覚悟」が問われている。