弱さと悪と愚かさとは、互いに関連している。けだし弱さとは一種の悪であって、弱き善人では駄目である。また智慧の透徹していない人間は結局は弱い--明治の知の巨人・森信三先生は、こう言われています。私が私淑するもう一人の明治の知の巨人・安岡正篤先生の言葉を借りて言えば、善人は自分を省みるもので、「たいてい引込み思案、消極的で、傍観的であり、団結しない。自然の草木と同じように自ら生きる。他に俟(ま)たないもの」です。他方悪人は元来、「猛々(たけだけ)しく深刻で、攻撃的・積極的であり、必要に応じてよく団結」するものです。
「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(『論語』)--本来人間は皆「赤心…せきしん:嘘いつわりのない、ありのままの心」で無欲の中に此の世に生まれ、誰しもが持っている良心というのは、欲に汚れぬ限り保たれて行くものですが、段々と自己主張するようになり私利私欲の心が芽生えてき、そして私利私欲の強さに応じ次第に心が雲って行き、結果として悪人になったりする人も出てくるのだろうと思います。但し私利私欲のため悪の限りを尽くす人間もいるにはいますが、根っからの苛烈な悪意が染み付いたような悪人は非常に少ないのではないでしょうか。
悪人というのは、ある面で鍛えられており結構強いものです。上記両先生共に善人のある種の問題点を指摘されているわけですが、ではそれを克服すべく善人が変わる必要性があるのでしょうか。私は、善人は有るが儘(まま)で良いのではないかと思います。と言いますのも、仮に善人が妙なふうに機敏に活動的になり、てきぱきと何かをやり出したとなれば、最早それは善人とは言えない雰囲気を醸し出すようなことにもなるからです。
善人について安岡先生は次のようにも述べておられます--悪人は一人でも「悪党」と言います。それじゃ善人をさして“彼は「善党」だ”とは言いません。悪党という語があっても善党という言葉は使わない。だから悪党と善人では、一応善人側が負けるものです。負けてから、懲りて奮起して、いろいろ苦労して勧善懲悪する(『[新装版]運命を開く』)。
「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り」(『易経』)--善行を積み重ねた家にはその功徳により幸せが訪れ、不善を積み重ねた家にはその報いとして災難が齎されます。「俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じず」(『孟子』)自らの心に一点の曇りなきことを、世のため人のためと思い自分の使命として次々に堂々と為して行くならば、人の助けのみならず天もまた助けてくれることでしょう。こうして得られる様々なサポートもあって、善人というのは「負けてから、懲りて奮起して、いろいろ苦労して勧善懲悪する」ものです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年4月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。