浜松と静岡で人生の半分以上住んだ家康と英国王からの提案

「どうする家康」では、姉川の戦いのときに、徳川家康が岡崎城を嫡男・信康に譲って浜松城に移ることが描かれていた(1570年)。

浜松城 Wikipediaより

遠江を獲得した家康は、武田と前線である磐田市の見付に出城を築いて家臣に与えようとしたが、信長が天竜川の西側の浜松に城を築いて、そこに家康自身が移り、岡崎には信康を残せと指示されたということになっていた。

このとき、妻の瀬名は岡崎にとどまって信康を後見することになる。これにより家康とは別居し、このことが、のちの信康が切腹を命じられ、瀬名も斬殺される事件の伏線になった。

浜松城は、家康が初めて居城として選んで築城した場所である。岡崎城は祖父の代からの居城である。浜松城は、天竜川から西へ6km離れた標高42mほどの小高い丘の上に築かれた。海からは5km、舞阪港からは10km離れている。もともと、今川家家臣だった飯尾氏の居城で曳馬城といったのを、縁起が悪いといって浜松と改称した。

家康はこのときから、豊臣秀吉に臣従することになって、畿内を意識するより小田原の北条氏に備える姿勢を示すために、駿府城に移った1586年まで居城する。

家康は、1590年に関東移封に伴い江戸城に移る。といっても、秀吉が朝鮮への派兵を始めたことで、家康も名護屋城に在陣したり、伏見城などで秀吉の側近くに仕えたりしたため、江戸城にあったのは総計で5年くらいである。

1598年の秀吉の死から関ヶ原の戦いや将軍在任期間と大御所になってからは、伏見城が家康の居城で、1607年には駿府城に戻って1616年に亡くなるまで在城した。

このあたりについては、家康の城についての好みが濃厚に反映されていることは、『なぜ家康は江戸城を嫌った?「信長・秀吉・家康」が好んだ城の特徴とは』で詳しく論じているのでそちらをご覧頂きたい。

なぜ家康は江戸城を嫌った?「信長・秀吉・家康」が好んだ城の特徴とは ダイヤモンド・オンライン

隠居所には、最初、三島も候補だったが、駿府に落ち着いた。幼少期を過ごした故郷であり、江戸とほどほどの距離、街道筋で大名があいさつに立ち寄りやすい、気候が良い、それから米がうまいというのも理由に挙げられた。商業を考えれば、もう少し、清水港に近いところでも良かったと思うが、重視しなかった。

しかし、浜松城に29歳から45歳までというまさに働き盛りのときに居城し、駿府には6歳から19歳、45歳から49歳、66歳から75歳まで住んでいたわけで、人生の半分以上静岡県人だったわけである。

また、あまり日英関係のはじまりは、駿府でのことである。

オランダは、1602年には東インド会社を設立したが、それに先だって船団を派遣し、船長のヤコブ・クワッケルナック、航海士の英国人ウィリアム・アダムス、オランダ人ヤン・ヨーステンらが乗ったリーフデ号が豊後に漂着した。

徳川家康の前のウィリアム・アダムズ Wikipediaより

アダムスは三浦按針という名を与えられ、家康の通訳・外交顧問となったが、英国にも手紙を書いて家康が通商を望んでいると伝えたので、英国東インド会社では、ジェームズ1世の国書を持ったジョン・セーリスを1611年に日本に派遣した。

その時に、英国から提案したのは、なんとカナダから北極海、ベーリング海峡を経て日本に至る航路を開発することだったのだが、そのあたりは、『英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語』(小学館・篠塚隆氏と共著)に詳しく紹介している。