憲法論という高齢者福祉事業

篠田 英朗

2023年の憲法記念日を迎える時期だが、いっこうに憲法論議は盛り上がらない。世論調査で改憲賛成が多数派を形成するようになって久しいが、国会はいっこうに発議をする気配がない。

日本国憲法 国立公文書館HPより

憲法学通説の間違った解釈を前提にした憲法運用の行き詰まりほど、日本全体の停滞を象徴するものはない。早く憲法学通説の誤った9条解釈を是正してほしいのだが、道は険しい。

平和安全法制の際の喧騒を見て疑問を感じた後、『集団的自衛権の思想史』『ほんとうの憲法』『憲法学の病』『はじめての憲法』などの著書を公刊し、その他の文章なども執筆して、憲法学通説の憲法9条解釈がいかにイデオロギー的に偏向したものであるかを論じてきた。

その内容に対する憲法学者からの真面目な反論はない。巷では、第一に「篠田は右翼だ」といった類のイデオロギー的立ち位置に全てを還元しようとする試み、第二に「篠田は憲法学者ではない」という憲法学者絶対主義に全てを還元しようとする試み、第三に「篠田のような若造が簡単に言うな」という年功序列絶対主義に全てを還元しようとする試みが見られるだけである。

私は憲法学通説を徹底的に批判し、しかも長谷部恭男教授らは換骨奪胎で私の主張をつまみ食いしているとまで言っているのだから(『集団的自衛権で日本は守られる:なぜ合憲なのか』)、もう少し内容に即した批判があって然るべきだはないかと思うのだが、上記三つのパターン以外の批判に出会うことがない。

憲法学者以外の方々からは、「戦後すぐに言ってくれれば篠田先生の憲法解釈は有力になったと思うのだが、今言われても・・・」とよく言われる。

後世の人物は、どんなに優れていても年配者に気を遣って黙っていなければならない、というのは、通常は学界ではあってはいけない態度だが、憲法論のような政策論となると、どうしてもそういう事情が発生してしまう。超高齢化社会の日本でそのような現象が起こるのは、自然なことなのかもしれない。だが、もちろん非常に残念かつ不幸な話である。

国会で意味不明な答弁が積み重なっており、訓詁学が論理的には整理がつかないレベルにまで達していることは確かだろう。知らないわけではないが、非常に残念かつ不幸な話である。

恐らく団塊の世代以上の方々は、憲法学通説が学説として間違っている、ということになると、自分の人生を否定されたような気持になるのだろう。「もし仮にそうなったとしたら俺の70年間の人生はどうなるのだ」という気持ちになるのも無理はない。

こうした方々が社会の多数派を占め続け、選挙の際の投票結果も決定する。そこでどうしても憲法論に手を付けられない。社会は変わらない。日本の停滞は止まらない。

今や憲法論は、高齢者の方々の気持ちをまず考慮する、という高齢者福祉事業に成り下がっている。

もちろんこれも空前の少子高齢化社会に突入している日本の厳しい現実の一つである。事態の行き詰まり感の度合いを過小評価するつもりはない。解決困難な極めて深刻な事態である。

いずれにせよ非常に残念かつ不幸な話である。