G7広島サミットを前に:グローバルサウスへの訴求という難題に如何に取り組むか

凄く盛り上がっている、というわけでもない感じだが、事実としては、このところ、淡々とG7関連会合が相次いで日本で開催されている。

林大臣率いる各国外相団の新幹線移動の模様が映像で流れたりしているので、軽井沢での外相会合は若干メディアで取り上げられた感じもあるが(4月16日~18日)、倉敷での労働雇用大臣会合や宮崎での農相会合(共に4月22日~23日)、札幌での気候・エネルギー・環境大臣会合(4月15日~16日)などは、よほど注意してニュースを追わないと普通の人のアンテナにはかかってこないことと思う。

とはいえ、こうした各種閣僚会合の「山の頂上」(サミット)が間もなく、5月19日~21日に開かれる。広島でのG7首脳会合だ。実はなかなかの仕掛けになっていて、G7諸国だけでなく、国連やWTO(世界貿易機関)、WHO(世界保健機関)、OECD(経済協力開発機構)などの7つの国際機関のトップ、そして、韓国、インド、ベトナム、オーストラリア、ブラジルなど8つの国の首脳も招待されている。

広島でG7の首脳会合を開く意味、ということを私なりに整理してみると、大きく3つ考えられる。(1)被爆地広島で開くことを強調した平和への誓い・核廃絶に向けた訴え、(2)ロシアのウクライナ侵略など武力による世界の秩序破壊に対する西側諸国の結束の誇示や徹底した対峙、(3)自由・民主・人権といった価値観の重要性(裏を返して言えば、中国やロシアのような権威主義的あり方への非難)についての国際社会への訴えである。

ここで死活的に重要になるのが(3)の部分だ。それは、(1)や(2)が象徴的には重要であっても実質的に意味を持たないから、ということで反射的・相対的に重要になるという文脈と、(3)が絶対的に重要になってくる、という二つの文脈から結論付けられる。

(1)に関して言えば、抽象的理念として核廃絶は大事であっても、ウクライナでロシアの核の脅威が現実的になっている現状、また、北朝鮮が核搭載可能なミサイルを次々にぶっ放している現状などから見れば、空疎なものにしかならないのは自明だ。空疎であっても訴えなければならない宿命ではあるが、後述する(2)の意味など考えると、空疎は空疎ということは理解しておかねばならない。

(2)については、西側やG7という「現代社会における重要な価値観」を生み出し、まっさきに共有する世界のトップランナーたちが、その秩序を乱す行為(ロシアのウクライナ侵略や、中国による台湾侵攻の可能性など)に対して、時に武力の行使も辞さない覚悟で、毅然として対応する、ということを示す意味がある。が、この点についても、各国の中で最も日本が「へっぴり腰」に見えざるを得ないという難しさがある。

アメリカを中心に各国が実用的な武器を次々に供与し、同じ第二次大戦の敗戦国のドイツですら戦車の供与を決める中で、防弾チョッキやヘルメットの供与しか出来ない日本が議長国としてG7諸国の毅然とした覚悟・態度を示す先頭に立つというのは、風景として正直無理がある。各国首脳の中で、もっとも後にではあるが、何とかサミット前にウクライナを訪問し、頑張って覚悟を示した岸田総理の議長としての努力は多としたいが、残念ながらこの文脈で先頭に立つのは荷が重い。

そうなると(3)、すなわち、日本が自由・民主・人権・法の支配等のいわゆる欧米的価値観の重要性を国際社会の訴求する、ということが、(1)や(2)との比較という意味で相対的に、また、絶対的に今回のG7サミットの意義・メッセージとして死活的に重要になってくる。サミットは象徴的な場ということになるが、更に言えば、サミット後を見据えた今後の日本外交のセンターピンと言っても過言ではない。

ここにおいて、その訴求対象として注目されるのが、いわゆるグローバルサウスと呼ばれる、主に南半球からの諸国、具体的には、中南米、アフリカ、東南アジアから西アジア・中東の諸国ということになる。それらの国に果たして日本が、いわば「借り物」のような欧米的価値観を担いで届けることが本当に可能なのであろうか。

結論としては、日本はこの難題を何とかして解いて行かないと外交的に存在意義がない。世界の平和や安定のためには、是非とも取り組んで行かねばならない課題だ。それをどのように達成できるのか。繰り返しになるが、非常な難問である。

というのも、経産省時代を含め、主に仕事でインド、東南アジア諸国、中近東・アフリカ、中南米と、それぞれ複数回以上出張させて頂き、何度となく先方と協議に臨み、時に宴席をご一緒した経験を踏まえると、確かに、日本が欧米の価値観を担いで届けようとする態度は、彼らから見ると「痛々しく」見える印象があるからだ。説得力がない。

「日本は、かつては米欧と勇敢に戦った国なのに、なぜ、欧米の片棒を担ぐのか」
「日本は、未だにアメリカに占領されているようなものだから、自らの意思を示せず、可哀想だし、仕方ないよね」
「日本は、近隣諸国を蹂躙したのは良くないけど、ある意味で、欧米的帝国主義国家群との戦いのなかでやむを得なかったところがある。そんな中で、十分に罪を償った感があるが、未だに贖罪意識を負わされて可哀想(欧米は、まだ罪を償っていない)」

といった感情に溢れているのが実態だ。

先述のとおりだが、グローバルサウスはとても広い概念だ。日本の近隣諸国、特に中国や朝鮮半島は、いまだに日本に酷いことをされた、という意識がそれなりに色濃く残っているが、当然ながら、中南米やアフリカ、中近東や西アジアなどは、日本に被害を受けたという意識は皆無である。

グローバルノース(青)とグローバルサウス(赤) Wikipediaより

しかも、特にグローバルサウスの雄ともいえるインドでは、経済成長に伴って、中国に次いで、だんだんと国民のナショナリズムに火が付き始めている印象がある。特に、読者諸賢に鑑賞をお勧めしたいのが『RRR』というラージャマリ監督の大ヒット映画だが(まだ日本でも一部でロングラン上映中)、やはり大ヒットした前作の『バーフバリ』のモチーフとは一変して、欧米の支配(インドなのでイギリスの支配)に対する猛烈な反感と怨恨感情をベースとした民族の誇りに満ちている。

つまり、日本はある意味で十分に罪を償ったが、その背後の欧米は、植民地支配にしても環境問題にしても、やりたいときに好きなだけやっておいて、未だに贖罪が足りていない、というセンチメントが、グローバルサウスには、通低音のように流れているという事実がある。そんな中で、日本が教条主義的に、欧米の片棒を担いで「自由だ、民主だ、法の支配だ、人権だ」と騒いでも、何の説得力も持たない。

日本は日本として、そうした欧米の価値観をしっかりと咀嚼して、わが国が大事にしてきた文化的な背景から来る価値観と融合させ、自らの言葉で、自らの価値としてそれを腹の底から説明しなければ説得力は生まれない。欧米の価値観をうまく取り込みつつ、優しい社会を日本は築いてきたという自信と、将来への展望を持たなければグローバルサウスの取り込みは達成できない。

今、「取り込み」という言葉を使ったが、本質的には、「取り込もう」とすると、相手は「拒否」「拒絶」するのが常だ。インド人がなぜ、日本に良い感情を持つのかということについては、歴史的な経緯その他、いくつか説明があるが、一つの有力説は、インドから見ると日本が「愛(う)い奴」だから、可愛いから、ということである。

日本人の多くが葬儀の際などに従う仏教の様式は元々インド由来だし、祇園祭りなどもインドの祭りに酷似していると言われる(山車の形式など、インドが由来という説も有力)。カタカナもインドの文字から来ているという説もある。カレーショップはそこら中に溢れている。

営業の基本ともいえるが、こちらから「売り込んで」「取り込む」のではなく、共通点をうまく示し、グッド・リスナー(良い聞き手)となって、「愛(う)い奴」となり、信頼を得てから、大事なことを自らの言葉で説明をしていくという順番も大事だ。

製造業や食事が典型であるが、我々は色々なものを柔軟に取り入れて、それを自家薬籠中のものとし、自らのものとして世界に展開してきている。自動車にしても、ラーメンにしても、インド流に言えばカレーにしてもそうだ。それらの例には枚挙に暇がない。

欧米的価値観を日本的あり方で自家薬籠中のものとし、自らのものとして言語化してグローバルサウスに展開していくこと。そして、その際に、教条主義的にならずに、「愛い奴」となって進めていくこと。日本外交には、こうした姿勢と態度、更にはそのような展開を図るための具体策が必要になってくると思う。

G7サミットを契機とした思い切った日本外交に期待したい。