学びと思索

我々は人間力を高めるべく、絶えず学んで行かねばなりません。そして学びつつ、常に考えねばなりません。『論語』の「為政第二の十五」に、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」とあります。孔子は「学んでも自分で考えなければ、茫漠とした中に陥ってしまう。自分の考えだけで学ばなければ、誤って不正の道に入ってしまう」と言っています。

あるいは同じく孔子の言に、「吾(われ)嘗て終日食らわず、終夜寝(い)ねず、以て思う。益なし。学ぶに如(し)かざるなり…私はかつて一日中何も食べず、一晩中寝ないである問題を考えたことがあるが、何も得るところがなかった。それより勉強をした方がよい」(衛霊公第十五の三十一)ともありますが、共に学びは必要不可欠で併せて思索が大事だと教えています。

要は、学びと思索というのは正に陽明学の祖・王陽明の言、「知は行の始めなり。行は知の成るなり」(『伝習録』)の如き関係性でなければ駄目なのです。知を得た人はどんどんその知を行に移し、知と行とが一体になる知行合一的な動きに持って行かなければ、ある意味得たその知は本物にはなり得ません。同様に、日々考えて考えて考え抜き、また考えながら学び続けて学び尽くす――此の両方が混在する中で、知行合一的に動かして行かねばならないのです。

また私は此の思索の中に、自反という要素つまり自らを省みることがなくてはならないと思っています。『論語』の「学而第一の四」で、曾子は「吾日に吾が身を三省(さんせい)す」と言っています。此の「三省する」とは日に三度自分を反省するではなくて、学んだ事柄を自分の日常に活かしているかと何度も反省することです。それでなくては本物にはなり得ないということです。

世の中は絶えず変化し、変化と共に新たな思索が次々生まれ、人類社会は継続進化して行っています。時代変われども本質的に変わらぬ部分も勿論沢山ありますが、学び薄くして唯我独尊の世界に入ったらば大変な間違いを犯しかねません。学んで反省し活かして行くという繰り返しの中で、人間は成長して行くことが出来ます。換言すれば、それが人間力を高めることに繋がって行くわけです。学びと思索は年齢云々関係なしに、常に平衡裡に為されて行かねばならないのです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年5月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。