チャールズ国王の戴冠式で日英皇室・王室の長い交流が話題になっているが、その始まりは、明治3年のアルフレード王子の来日である。このときに豪華な接待をしたことが評判となって、それがヨーロッパで評判になって、各国のプリンスたちが続々と日本に押し寄せ、それが日本の国際的地位を高めた。
その経緯は、 『英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語』(小学館 八幡和郎・篠塚隆)で紹介したが、やはり紹介したのが、英王室と日本の交流というと、皇室でなく徳川家康とジェームス一世の交流がその始まりなのである。
それについても上記の拙著で紹介しているが、そのあたりを敷衍して、別のサイトで、『家康時代に始まった英王室との交流、400年前に考案された「過酷すぎる航路」とは』という記事を書いているので詳しくはそちらをご覧頂きたい。
ここでは、そのうち、徳川家康が、日本からカムチャッカ半島の沖を通り、ベーリング海峡を抜けてアラスカ北岸の北極海を通り、ハドソン湾からロンドンをめざす航路の開発を狙っていたという話を紹介したい。
豊臣秀吉の外交政策については、拙著『令和太閤記寧々の戦国日記』(ワニブックス)の主要テーマとして論じたことがあるが、中国を本格征服するという計画は、文禄の役において短時間で漢城まで占領できたため、一時的に夢が広がっただけで、本来は、そんな調子よく行くとは考えてなかった。
現実的に秀吉が狙ったのは、朝鮮半島南部で領土を獲得し、朝鮮王府を監督下に置き、明との貿易を朝鮮経由でもいいから実現するあたりだった。
これでも夢みたいな話だと思う人が多いだろうが、島津氏が徳川家康に支援されて琉球に対し実現して、奄美を併合し、首里に代官を常駐させ、琉球との貿易を実質的にコントロールし、明もそれを黙認したのだから、非現実的でもなかったのだ。
家康も、関ヶ原の戦いのあと朝鮮に再出兵をするぞと恫喝して、緩やかな朝貢使節である朝鮮通信使の派遣、明との貿易仲介の依頼をしている。これは明に断られたのだが豊臣滅亡後に次の一手を打ったかもしれない。
ヨーロッパ諸国との関係では、スペインやイギリスと東日本から東回りの交流を試みた。伊達政宗が家康の了解の下で、支倉常長を派遣したのは、スペインにとってメキシコからマニラへは直行が可能だが、復路では風向きから北回りの大圏航路を通る必要があり、寄港地として東日本の港が欲しかったからである。
しかし、マニラの商人たちが「日本と中国を結ぶ通商が始まるとマニラが捨てられる」と心配して妨害したので、フェリペ3世の政府は伊達政宗の提案を受けなかった。
一方、イギリスは、難破したオランダ船にのっていた英国人ジョン・アダムス(三浦按針)の仲介で、ジェームズ1世の使節が日本に来た。しかし、東回り航路はポルトガルやオランダに押さえられていたし、南米最南端のマゼラン海峡周りでは遠すぎた。そこで、北極海回り航路が模索されたのである。夏の間だけなら可能なように見えたのである。
実は、イギリスは1584年にイワン雷帝のロシアと、イギリスと北極海につながる白海に建設されたアルハンゲリスクを結んで、ロンドンと夏の間だけの航路を開いたのである。
これに味を占めて、東インド会社は、1609年に探検家ハドソンをカナダに派遣して、ハドソン湾を発見し、西へ進もうとした。この冒険は、船員たちの反乱で、ハドソンは厳寒のハドソン湾に置き去りにされて行方不明になり、地名だけに名を残し、日本への航路も実現しなかったのだが、少なくとも当時は、まだ、非現実的とは考えられていなかったのである。
もし、これが実現していたら、それこそ、世界の歴史は変わっただろうが、自然の猛威はこれを阻んだ。ただ、地球温暖化が進み、砕氷船の発展してくると、今世紀のうちには、家康の夢が正夢になるかもしれない。