容疑者完全黙秘の殺人事件で露骨になる「犯人視報道」と“日本の刑事司法の構造”

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2023年5月10日、東京都江戸川区の住宅で住人男性を殺害した疑いで同区立中学教諭が逮捕され、同月31日に起訴された。この事件では、

  • 現場の住宅から教諭の持っているスニーカーと同じ型の土足の足跡が見つかっていた。
  • 捜査が及ぶことを想定して教諭があらかじめ作成したとみられる“想定問答”のメモが関係先から見つかっていた
  • 事件前後に少なくとも2回、服を着替えていた。

など、被疑者の犯人性に関する「警察リーク情報」が山のように垂れ流された。

2022年10月に、21歳の女子大学生をタリウムを摂取させて殺害したとして起訴された京都市左京区の元不動産業の男性が、3年前の7月にも、61歳の叔母を殺害しようとしたとして2023年5月24日、殺人未遂の疑いで再逮捕されたが、この事件では、

容疑者のスマートフォンを調べたところ、叔母に対する殺人未遂事件の5か月前から「殺人」ということばが、さらに、2か月前からは、「タリウム」ということばが検索された履歴が残っていた。検索は叔母が体調不良を訴えた数日前まで続いていた。

などと報じられている。

いずれも、取調べに対して、容疑者は黙秘しているとのことだ。

このような話が、連日報じられると、殆どの人は、被疑者はこの事件の犯人だと確信するだろう。実際に刑事裁判が開始される前に、世の中的には事実上「有罪の結論」が出てしまうことになる。この事件は殺人事件なので、当然、裁判員裁判の対象だ。報道によって裁判員が予断を持つことにもなりかねない。

一方、5月25日に発生した長野県での4人殺害事件については、警察からの捜査情報リークによると思える報道はほとんどない。4人殺害後、犯人が猟銃を持って立てこもった末に逮捕されたこの事件では、「犯人性」に殆ど問題がない。警察側に、捜査情報をリークして犯人視報道をさせる必要がない、ということだろうか。

被疑者が黙秘して犯人性を認めない事件においての露骨な「犯人視報道」の背景には、国選弁護人が起訴後にしか選任されず被疑者段階の弁護が限定的にしか行われなかった昔とは異なり、当番弁護士や起訴前国選弁護が充実し、逮捕直後から弁護人の介入が行われ、しかも、無実を訴える被疑者に対しては、捜査段階での黙秘を勧めるのが刑事弁護のデフォルトとされるようになっているため、警察の取調べで自白が得られにくくなったことがあるようだ。

日本では、世間の耳目を集めた殺人事件などの場合、警察の側に、「事件を解決する」ということに対する拘りが強い。昔であれば、取り調べで被疑者を自白に追い込み、「全面自供」で事件が解決、という決着が多かったが、被疑者が「完全黙秘」では、それは見込めない。

そこで、警察幹部が記者クラブを通じて各社の記者を集め、被疑者の犯人性について警察が収集した証拠の内容を一方的にマスコミに情報提供しているようだ。それによって、世の中に「被疑者が犯人であること」を確信させ、それによって、事実上、「事件の解決」にしたいということであろう。

しかし、本来、刑事事件について有罪無罪の判断は、裁判によって行われるというのが当然の原則のはずだ。

被疑者は、取調べに対して黙秘して、刑事裁判で自らの主張をしようという姿勢なのであるから、その刑事裁判が開かれ、そこで、公正な審理によって有罪無罪の判断が行われるのを待つべきであろう。

その被疑者が真犯人であるかどうか、有罪であるかどうかの判断は、国家の公正な手続で行われなければならない。被疑者側の弁解や主張が全く行われない状況で、警察がマスコミを通じて一方的に世の中に「有罪の認識」を広めていき、刑事裁判が始まった時点では、既に世の中には「有罪の確信」が動かしようがないものになっている、というのでは、あまりにもアンフェアだ。

前記のような「犯人視報道」からすると、江戸川区立中学教諭が逮捕された殺人事件でも、被疑者が犯人であることは間違いないように思える。

しかし、それらの事実について、被疑者・弁護人に弁解・反論の機会が与えられたわけではない。「想定問答作成」にしても、どの時点で、どのような状況において被疑者が作成したのかによって、その意味は異なってくる。警察側の情報提供による一方的な報道をそのまま信じ込むことが危険であることは言うまでもない。

このように、被疑者逮捕後の「犯人視報道」によって社会の中に「有罪の認識」が定着するのが恒常化していることの背景に、日本の刑事司法の構造そのものの問題がある。

日本では、被告人が起訴事実をすべて認めた「自白事件」でも、検察官が「有罪を立証する証拠」を裁判所に提出する。その証拠が公判廷で取調べられ、裁判所が証拠に基づいて犯罪事実を認定し、有罪判決が言渡される。

ここでは、有罪判決は、裁判所の証拠による事実認定に基づいて行われているという「建前」が維持されているが、被告人が起訴事実を認めているのに、裁判所が、「証拠が十分ではない」と判断して「無罪」を言い渡した事例は、過去にはほとんどない。

つまり、実際には、日本の刑事裁判では、起訴される事件の9割以上を占める「自白事件」について、裁判所は量刑の判断をしているだけだ。それなのに、「証拠に基づいて事実認定を行う」という外形を維持するために「(当然)有罪の事件の司法判断」に膨大な労力と時間が費やされている。その分、被告人が無罪を主張する「否認事件」に費やす時間と労力が限られてしまう。このような刑事司法の構造の下で、有罪率は99.5%(否認事件だけでみても98%)を超える。

刑事裁判は、本来は、納得できない、謂れのない容疑で逮捕され起訴された者が、弁解・主張を述べ、裁判所がその言い分に正面から向き合い、証拠によって事実を確認する場であるはずだ。しかし、現実の日本の刑事裁判の多くは、「検察の主張どおりの有罪判決を、流れ作業的に生産する場」に過ぎないものとなっている。

被疑者の逮捕」というのも、本来は、「逃亡のおそれ」「罪証隠滅のおそれ」がある場合に、それを防止するための措置に過ぎないはずだ。しかし、実際には、それによって、実名報道が行われ、「犯罪者」というレッテル付けが行われる。そのレッテル付けに「犯人性」の裏付けを与えるのが、警察情報による一方的な「犯人視報道」だ。

検察官の起訴は、刑事訴訟法上は、刑事裁判を求める「検察官の行為」に過ぎないはずだが、日本では、公訴権を独占し、訴追裁量権を持つ検察官が「正義」を独占している。検察官の判断は「正義」であり、事実上、そのまま司法判断となる。

日本では、このように、警察の逮捕によって「犯罪者」としてレッテル付けがされ、それが、検察官の起訴で「正義」のお墨付きを与えられることで、「被告人=犯人」の推定が働く、まさに「推定無罪の原則」の真逆の構図がある。

そのため、起訴された被告人の多くは、自白し、裁判でも起訴事実を認める。「犯罪事実を認めず悔い改めない被告人」は、「検察の主張どおりの有罪判決を、流れ作業的に生産する場」に過ぎない刑事裁判の場に引き出される前に、「犯人視報道」が、「自白」に代わって、世の中での「有罪」の確信を生じさせる機能を果たすのである。

刑事裁判の手続においては、警察や検察に逮捕された者は、通常、潔く自白し、裁判でも罪を認めるのが「デフォルト」だと思われてきた。そこでは、被疑事実を争ったり、裁判で無罪主張したりする行動自体が異端視される。そのような人間は、罪を認めるまで身柄拘束されるのは当然だという考え方が「人質司法」につながる。

憲法上の権利である黙秘権を行使する被疑者に対して、警察幹部が、「犯人視情報」を提供し、それをマスコミが垂れ流す、その背景には、日本の刑事司法の構造そのものが存在するのだ。

このような、刑事裁判というものをおそろしく軽視した日本の刑事司法のままで良いのだろうか。刑事裁判の在り方そのものを、そして、これまでの「形骸化した刑事裁判」を前提にした犯罪報道の在り方を、根本的に考え直すべきではなかろうか。