母の命日に想うこと

1999年6月1日、私の母が天に召された日だ。それから24年の歳月が流れた。大腸がんと診断されてからわずか1年の歳月だった。私は母が19歳の時に生まれたのですでに母よりも5年間長生きしたことになる。

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自分で言うのも変な話だが、20世紀の中村祐輔と21世紀の中村祐輔は別人格のように思う。他人に厳しいだけでなく、自分にも厳しい点は変わりがないが、己に対する欲がなくなり、患者さんや公に対する思いが歳と共に強くなってきた。

これも母が闘病している間の会話の影響だ。手術の前日や亡くなる前日に「お前が研究している病気にかかっている」ことを私に詫びた。私に恥をかかせたと心配していたのだ。死が目前に迫っていることがわかっていた5月31日も、その言葉を聞いて涙が止まらなかった。心に響いたどころではない。私の人生哲学を変えた言葉だった。

いつも仏のような笑顔の母が、骨転移による痛みに顔を歪めている様を見つつ、何もできない自分が悔しかったし、情けなかった。何も治療法がなく、死を待つだけの患者の家族の思いが痛いほど身に染みた。標準療法さえ提供していれば、医師として一人前の責任を果たしていると思っている医師たちに、怒りを通り越して、憐れみの情さえを感ずようになった。

それから24年、がんという病気に対する戦いと、似非権威と利権いう非人間的な世界との戦いを続けてきた。しかし、私も人間なので、孤独な戦いに疲れを覚えることもあった。そんな気持ちが切れそうになるたびに、机上の母の笑顔の写真が目に入るのだ。今年の3月には沖縄に引退する計画を立てていたが、国立研究開発法人の理事長という酷な仕事に夢は打ち砕かれた。

「お母ちゃん、もうこの辺りでええやろ」と大阪弁で写真に問いかけても、「最後まで、頑張らんとあかんやろ、あんたは」と優しく微笑み返してくる。

患者さんに希望を提供して、笑顔を取り戻すまで、許してくれそうにないだろう。


編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2023年6月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。