先月末にアップした「神宮外苑再開発に私が”賛成”する理由」という記事はかなりネットで読まれました。
詳しくは上記記事を読んでほしいですが、とりあえず物凄くざっくり要約すると、以下のようになります。
- 再開発されるのは明治神宮の周りにあるあの荘厳な「内苑の森」ではない。
- 内苑の森は明治神宮の私有地。外苑のスポーツ施設なども多くは明治神宮の私有地。宗教団体なので公金が入れづらい中で、特に内苑の荘厳な森の管理費の捻出が常に問題になってきた。
- 今回のプランでは「空中権取引」と「借地権代」によって、神宮球場その他の改修費用と、内苑の森の安定した維持費を捻出する目論見がある。(だから単に再開発プランを簡素化するだけでは別の収益源をゼロから見つける必要が出てくる)
- 外苑の再開発に反対ならば、その「明治神宮側の事情」も迎えに行くような議論が必要なのではないか?
めっちゃ端折って要約しているのでこの件についてよく知らない人はぜひ上記リンクから先に読んでいただければと思います。
その後一ヶ月の間、「反対派」の人から私のTwitterアカウントに殺到するコメントの量はなかなか未体験レベルに凄かったです。
そのなかには、冷静な事実関連の指摘や、ある程度納得できる色々なご意見から、ただの暴言みたいなものまで色々ありました。
最初のうちはある程度納得できる指摘も多かったのでちゃんと対応していたんですが、「22の質問状」とか送ってきたものにちゃんと全部答えたのにブロックされたりとか(笑)、「その話ちゃんともう記事内で対応したよね?」みたいな事まで延々と送ってくる人がいたので、そのうち放置するしかなくなってしまったんですが。
ただ、一ヶ月の間(5月18日の東京都の審議会でとりあえずのゴーサインが確定してからは大分静かになりましたが)色々な反対派の意見や情念や暴言を大量に浴びてみると、色々と勉強になる事は多かったです。
正直言って「こういう議論のやり方」で無理やり押し込んでこられても事業者側も意固地になって押し切るしかなくなるよなあ・・・という感じになるタイプの言論は凄い多かった。
今回の再開発事案はこのまま進みそうですが、今後の東京の再開発案件がもっと「双方向的」で色々な人の思いが込められたものになっていくためには、どういう風に議論をしていけばいいのか?について、「反対派の大量のコメント」を受け取ってみて見えてきたポイントについて書きます。
こういう議論は日本社会で結構幸薄いものになりがちですが、反対者側も事業者側も、どういう部分に気をつければこういう対話が「双方向」的なものに転換していけるのか?という点で、どちら側にいる人にも意味がある記事にしたいと思っています。
1. 「明治神宮」を「敵」にしている時点で話がまとまるはずがない
殺到した色々な「反対派」のコメントの中には色んなレベルのものがあって、冷静な事実関係の指摘は大変ありがたくてだいたい訂正しました。
ただ、「事実関係の細部」が違っていたからといって私の意見全体が無意味になるか…というとそうでもないという結構単純な事がわかってない人も多くて、話の通じなさに衝撃を受けました(笑)
例えば外苑全体が明治神宮の土地ではなく一部には国有地が混ざってるとか(どちらにしろ一応東京都の公的な仕組みを通して認可されてるので問題はないですよね)、反対派の中には左翼でなく右翼もいるとか(そりゃいるでしょうけど実際の影響力はほぼゼロですよね。それに一水会みたいな反米右派はイデオロギーを現実に優先するという意味で左翼みたいなものだと私は思っています)…などを延々と何度も書いて送ってくる人がいるのには閉口しました。
一方で、私の意見の「どこ」がポイントで、どこを覆せばちゃんとした反論になるのか?という事がわかっているレベルの意見というのは別にあって、それらの人は、
・再開発を中止し神宮球場などの補修だけにすれば事業費はいかに低く抑えうるか?
・明治神宮はいかに想像以上に儲かっているか?
…というあたりで色んな事を言ってくるんですが、なんかこういう人は「論点がどこかを理解できる知的で頭がいい人」という感じではあるものの、「議論の方向」自体が、単に「論破」を目指しているという点で有意義な対話から程遠い効果を持っているように思いました。
耐震その他が問題な神宮外苑のスポーツ施設の改修費用が、反対派の見積もりの最少額レベルの数百億円まで圧縮され、明治神宮の収益見積もりとして反対派が出してきた最大の数字である毎年160億円の売上があったとしても、内苑の森の年間10億円の維持費を払いながら外苑の設備更新も同時に行っていくのは「まあまあ大変」なのは変わりないからです。
収益事業の利益率が高めに10%程度あったとしてもそこから税金も払います(宗教団体も収益事業では払う)し、そもそも「外苑の収益を外苑の設備更新に使う」以外に毎年10億円の「内苑の森というお荷物」があるという構造自体がもつ難しさは変わらずあります。
また、東京都が主体になって進められたプロジェクトだから明治神宮は一切関係ないのだ…という話にやたらこだわってる人がいるんですが、発案段階の最初の経緯はどうあれこんな巨額の再開発案件を自社の責任で実行しながら「明治神宮はただ無理やりやらされてるだけで関係ない」なんてことがあるわけないですよね。
そのあたりは後編の小見出し3で書いたとおり、日本社会というのは「立場を超えて共通の必要性に向けて動いて」いるので、森喜朗氏の推進発言があったからといって明治神宮が関係ないとは言えないというあたりの「理解の仕方」が大事なんだと思います。
要するに最初から「”敵”を論破すること」を目的としないで、「まずはこっちから迎えに行って何が起きているのが理解する」姿勢が必要だということですね。
どの論点に関しても、まずは明治神宮を「敵」扱いして「論破」することが目的化している時点で余計に問題がコジレる原因になっている。
今回の事業者は別に違法行為をしてるわけではないので、それでも本当に開発を止めたければ、もっと巨視的に見て「相手側の事情」も飲み込んだところの解決策に向かって「協力して動いていく」ようにする事が必要だと思います。
私はこれを、「自分たち側のベタな正義」と「相手側のベタな正義」を両方対等にテーブルに上げて解決を目指す「メタ正義感覚」と呼んでいます。
要するに「明治神宮は敵じゃない」という視点が大事なんではないかと。
2. 敵 vs. 味方を超えた「最終形をイメージする」
殺到するコメントの中には、この問題について結構冷淡というか、揉めてること自体をバカバカしく思っているタイプの人もいて、そういう人は
「しょうもない議論。さっさと内苑の森ごと国有化してしまえばいい話」
…みたいな捨て台詞を吐いていく人がチラホラいたんですが、結構この問題の本質を捉えている感じはしたんですよね。
年間10億円前後というイコモスが試算した「森の維持費」って、「大きめの中小企業」みたいなサイズの明治神宮が負担し続けるのは結構大変ですが、都内にある巨大な緑地の維持費として公金で負担します…となると、まあまあ納得される事の多い金額だと思います。
国有化するにしろ、なんか別の方法で寄付金を募ってファンドが…みたいな話にしろ、「安定した最終形」に向けて動かしていく方法は何らかあったはず。
だから、「外苑の再開発を阻止したい反対派」は、別に「明治神宮を敵にする」必要は全然ないはずなんですね。
必要な事業費を「最小限に」見積もって、明治神宮の売上額を「最大限に」見積もって、明治神宮を「論破」して…という風にやる必要はそもそもない。
「明治神宮側の懸念も含めて全て解決できる共通のプラン」に向けて責任持って動かしていく姿勢を見せるだけでいい。
「そういう事を自分たちは言っている」と思っている人もいるかもしれないが、そもそもこんなに「意見を一般公募したら揉めまくって何も決まらなくなるのが定番」なタイプの課題に対して、「公開論破」から入ってる時点で双方向的になりようがない感じになってるんですよね。
「後編」で紹介した「新建案」の中に、
土地・建物所有者にとって外苑の維持管理負担が問題であるならば、その問題に関する情報公開を行い、都民も含めて方策を検討すべきです。
…という文章が最後の最後にチョロっとだけ出てくるんですが、
「最後にチョロっと」じゃなくて最初から「それ」を全面に押し出していけばちゃんと「双方向的な対話」になった可能性もあったと思います。
(新建案では「外苑」の話しかしておらず肝心の内苑の森の話が出てこないという大きな問題があるわけですが、それも全部含めて”共通のゴール”に向けて動かしていく姿勢があれば、また違った話の展開がありえたはずです)
しかし、今の日本の環境だと、そういうのを「フルオープンな市民的議論」でやろうとすると、結局延々と「その10億円で困窮している生活者の支援をするべき」みたいな話が大量に混ざってきて、結局内苑の森の維持管理という「公」はどこかに吹き飛んでしまいがちなんですよね。
困窮者支援は当然されるべきことですが、それとこれとは全然違う話のはずのところ、「党派的な争い事」に巻き込まれて、本当に「みんなのための公」は常に後回しにされてツケを押し付けられることになる。
ただ単に「オープンな議論」に無理やり引っ張り込むだけだと、議論が漂流しているうちに10年とか平気でたってしまって、内苑の森の維持費が出せなくなっても結局誰も責任を取らないみたいな状況になるのは目に見えている。
私のこういう予測自体が「相互理解の可能性を諦めている」というように批判する人もいましたが、こういうのは最近の日本の「定番パターン」であり、むしろ私は「こうならない情勢」をなんとか作りたいと思って活動している人間なわけですよ。
それは例えば、以下の連続記事で書いたように昨今の日本の電力行政が大混乱になっているのも同じ構図です。
日本社会のあらゆる場所で根本問題的に「あるある」になってしまっているすれ違いがここにある。
勿論、もっと事業者が丁寧な説明をした方がいいとか、情報公開がもっと必要だという話は当然あるでしょうけど、ちょっと公開したらあることないこと曲解されて批判されるんだろうな…と思うような状況が放置されていれば、別に法律で完全に義務付けられているわけでもない種類の情報公開には消極的になるのも当然なところはあると思います。
そもそも「双方向的に話せる環境」を作っていく事自体は皆の責任で真剣にやっていかないと。
そういう「”果てしない議論の漂流”にならないように協力する責任」も反対派が取る姿勢があれば状況は変わったでしょうが、そういう姿勢はほとんどない状況の中では、別に違法行為をしてるわけでもないんだから、「議論が漂流してしまわずにちゃんと読める範囲」の中で完結させようとする今の事業者の責任感は大変理解できる。
日本においては、その「事業者側の責任感」によって社会の「公」的な部分が維持されている部分も大変大きいので、そこもちゃんと計算に入れて議論を組み立てていく必要がある…というのが、色々な批判を受けて書かれた「後編」の趣旨でした。
3. 「反・開発主義」と決別する自然保護があってもいいかも?
ただ、上記の「内苑の森の維持費も公費負担することにして問題解決」というのは非常に縮小均衡的な案であることは間違いありません。
本来そこで生まれるはずだった「総工費三千数百億円のビッグプロジェクト」は全部雲散霧消してしまうことになる。
より本質的な「メタ正義的解決」のためには、「明治神宮を敵としない」だけでなく、この「三千数百億円の事業欲」も敵にしない解決策の模索があってもいいのではないか?と私は感じました。
「後編」で書いたように、「一切木を切るな」という発想自体が、非常に欧米由来的なもので、伊勢神宮の「式年遷宮」のように、そもそも国にとって最も重要な宗教施設ですら定期的に木材を使って建て替えをしてきた日本社会の伝統的な価値観にそぐわない部分があるのではないか?と思うところはあります。
「反対派」が出してくる案が、どれもこれもあまりに「反・開発主義的」なのが、どうも非常に人工的で嘘くさい借り物の観念を押し付けられている感じがして、日本人の「集合的無意識的な民意における納得感」において事業者案に負けているのではないか?という感じがする。
むしろ、日本人の本能が求める「式年遷宮的スクラップビルド」をどんどん取り込みつつ、むしろ自然保護みたいなものをもっと徹底してやれる道があるのではないか?と感じます。
つまり、「事業者側の事業欲」も「敵」扱いしないで利用した上でもっと緑化が進むような方向に持っていけるんでは?という感じがする。
4. 『再開発による高層化』と『緑化』は本来は敵同士ではない
今回の外苑再開発の議論を遠目に見ていると、若木と成長した木での「緑の量」の違いみたいな話まで持ち出して再開発で緑は増えるか減るか…みたいな話をしているんですが。
それで緑が5%増えるか減るか…とか、あまりに議論が些末なところに迷い込み過ぎてるんじゃないかと思います。
『緑地面積』の割合は今の”25%から30%に増える”と事業者は主張するが、植えられるのは若木なので緑の『体積』は”5%減る”。
↓
よってこの再開発は認められない!
…って、一体何の話をしてるんだという感じで、お互い相手を論破することに熱中しすぎていて、「どちら側のニーズも汲み上げられる共通のゴール」を探す姿勢が吹き飛んでしまっている。
しかし、高層化を軸とする再開発と「緑化」って、本来敵同士じゃなく味方にもなりえる問題ですよね?
森ビルの資料によると、例えば六本木ヒルズ再開発によって、むしろ対象地域の緑地面積は大きく増えています(約1.5倍)。
緑地の増加だけでなくビルの屋上の緑化にも熱心で、六本木ヒルズは屋上に田んぼがあったりして毎年田植えイベントとかされているらしい。
都市の構造物を「縦に伸ばす」形で高層化して配置すれば、当然「緑地」を作る余裕も出てくるわけなので、むしろ高層化によって緑地を増やす『Vertical garden city(垂直の庭園都市)』というコンセプトを森ビルは提唱している。
また最近、一個前の記事で紹介した漫画家大童澄瞳氏が参加した「ビオトープ」に関する本を読んだのですが…
「人工的な水辺」を作り出すことで、本来そこにあった生物多様性が回復するヨリシロを作ることができる…というコンセプトです。個人的に最近このコンセプトに凄いハマってるというか、「いいなあこの発想!」と思ってるんですよね。
手軽なところではプラスティック製のコンテナみたいなものから、大きくは防水シートを使った人口の池などを使って「自然環境」を再現してやれば、そこにさまざまな水生生物や昆虫や水鳥や藻のような生態系が自然に再生されていくらしい。
「水」と「陸」の間の部分としての”エコトーン”という中間的な領域をいかにうまく作るかが生態系の豊かさには大事なのだ…というコンセプトなど、めっちゃ希望を感じる良い本でした。
最小サイズのものはマンションのベランダでもできますし、耐水シートを使って作る人工池による民家の庭サイズのものもあれば、福岡県北九州市には、廃棄物埋立地を転換した巨大なビオトープがあるとか。
前編で紹介したイコモス案にも少しだけこの発想が取り入れられていましたが、こういうのは徐々に「最新の再開発のトレンド」になってきているらしく、例えば三井不動産が手掛ける東京駅付近の大手町地区のOtemachi One再開発では、皇居のお堀の水棲生物と生態系を共有できるよう設計されたビオトープが整備されています。
5. 緑地やビオトープを絡めると”儲かる”構造にできるかどうか?
今回の話を色々と調べてみて思ったのは、「空中権取引って凄い巨額になるんだな」ってことです。
容積率でガチガチに縛られているので、それを超えられる理由を作れるとなると場所によっては数百億円とかのレベルでのお金になる。
こういう「カネまわりの事情」を、「緑化を目指す団体」は「敵視しない」事が、これからは大事になってくるんじゃないでしょうか。
今は森ビルとか三井不動産のようなメガデベロッパーしかそういう「むしろ緑化になる高層化」などできませんが、
緑化とビオトープの設置を引き換えにした規制緩和
…みたいなものを整備していって、
ある程度のレベルの事業者ならそれに参加して儲けられる定番スキーム
…ができれば、
日本全国のあらゆる都市で高層化と緑化はあっという間にガンガン進む
…でしょう。
それを本当に実現するには、勿論緑化関連の理想も妥協しないようにしつつ、三井不動産みたいな巨大な会社だけでなくある程度「大きめの中小企業」ぐらいの会社でも十分取り組める、そして「利益を出しうる」スキームにすることが大事です。
そのためには、不動産にまつわるカネの動きのメカニズム(容積率の問題や税金との関係など)を実質ベースで一切否定したり断罪せずに理解した上で、実際に「使いやすい制度」を作っていく、非常に丁寧な「メタ正義的プロセス」が必要となるでしょう。
今の日本のこういう規制行政は、「反・開発が自己目的化したような理想」と「事業者側の欲求」がお互い全然溶け合わずにぶつかり合う結果、既成事実的にOKになっている事業欲が変な方向に暴走して誰のためにもならない建物が建てられている的な要素がなくはないようにも思います。
逆に、もう「事業欲」の方も断罪しない、「反対派がもっていた理想の一番良い部分は必ず取り入れるようにする」というあたりに、本来あるべき規制行政の着地点があるはずだと思います。
神宮外苑再開発で”緑地”は5%増えるが”緑の体積”は5%減る…とかそういう議論をしているよりも、むしろこの「儲け話」レベルの話と「自然保護の理想」を、お互い敵として見ないような落とし所を見つけていくほうがよほど希望がある議論だと言えるのではないでしょうか。
6. 「理解のある自然保護派」と「事業者」がもっと結託し新しい流れを作っていくべき
とはいえ、「反対派」ってただ「反対する事自体が人生の目的」という人も結構いると思うので、なかなか「今敵同士になっているグループ同士が対話する」のは難しいところがあると思います。
そして「ただ反対しかしない」人にも、事業者が単なる金儲けの亡者になって安易な再開発を連発しないようにするためには必要な存在だという事は言えるので、そういう活動をしたい人はそのままやっておいていただければいいし、そもそも自由主義社会でそれを”抑圧する”みたいな事は不可能ではある。
だからこそこれからは、
「事業者側が、”理解のある自然保護派”とガッチリとタッグを組んでもっと”攻め”の姿勢を見せる方向」
…に動いていくといいのかなと思いました。
そうすることで、最終的に「反対のための反対派」に打ち克っていくゴールに近づければ理想でしょう。
あっちこっち無理やり保存する事で5%の緑地が減った増えたとかやりあうんじゃなくて、
・ガンガン再開発はします!
・そしてバンバン儲けます!
・でも高層化によって緑地面積はなんと1.5倍に(例えばの数字ではありますがだいたい六本木ヒルズの時の倍率)なります!
・周囲の生態系を配慮し植物学者・動物学者と協力したビオトープも作ります!
…みたいな方向に持っていけるような、規制行政や事業者と植物学者や動物学者とのコラボレーションが生まれていくと良いのかなと思いました。
■
この記事に対して色んな人が色んな意見を持つと思いますが、こういうのも一種の「生態系」みたいな発想が必要で、「反開発主義的な伝統的反対運動」がやりたい人は今後もやっていただければいいんですね。
しかしそういう「反開発主義的な古い反対運動」を超えるような、「自然の豊かさを取り込むような開発主義」みたいなものを、伝統的事業者が生物学者や動物学者などと協力して創り出し、堂々と
「私たちがカネ儲けをすればするほど、日本の都市の緑地面積は増えます!」
…というようなメッセージを発することができるような構造に、最終的に持っていければいいですね。
最終的には、機動的な規制行政を含めて、日本の都市が「資本主義のパワー!」によってバンバン緑化されていく未来に近づいていくことを望みます。
そうなっていくためには、この記事でここまで書いてきたような、「メタ正義的発想」が必要です。
「メタ正義的解決」において重要なポイントは二つあって、まず
・「自分とは逆側の意見を持つ人」を、「論破」しにかかるのではない
…というのは第一段階として大事なのですが、同時に
・「無理やり対話しなきゃ!」となるのでもない
…ことが大事な発想の転換です。
そうではなくて、
相手の「存在意義」と向き合って、それがネコソギ無効化されるような本質的な転換を起こす
…ように動いていくことが大事なんですね。
「事業者と対話」するのではなく「事業者側の正義が支持されている理由=存在意義」の方に向き合ってそれを自分たちの価値観でもOKな形で代理解消するように動けば開発を止められる。
あるいは、「反対派自体と対話」するのではなくて、「反対派が持っている存在意義」と向き合って、自分たちの側のやり方でその根本的課題が解消されるように動いていけば開発を進められる。
そういう「メタ正義的発想」が定着することで、人類社会に溢れる「議論のための議論」が延々続く不毛さを超えていく道が開けていくことを望んでいます。
詳しくは、以下の本をどうぞ。最近色んな人から、「倉本さんがこの本で書いた通りになってきてますね!」とお褒めをいただいています。「あるべきメタ正義的転換」に向けてガンガン押し切っていって、人類社会の新しい共有軸を日本に打ち立てていきましょう。
■
長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
ここからは、外苑再開発問題とも絡むのですが、なぜ日本人は「近代建築遺産の保護」に冷淡なのか?という問題について考えてみます。
先日、この外苑再開発問題について、私の経営コンサル業のクライアントである結構大きな建設会社の社長(三井不動産とかのサイズではないが、地方にあってその地域を代表する会社というレベルではある)といろいろと議論したんですね。
その中で彼は、
外苑にある木を一切切るな!というのは極端すぎて共感できないが、秩父宮ラグビー場とか神宮球場といった「近代建設遺産」みたいなものに対して日本人が冷淡すぎるのが気になる。
黒川紀章のメタボリズム建築とか、丹下健三の初期の代表作とか、どんどん解体されてしまっていて、建築屋としてはさみしいが、でも保存運動は大きな広がりを見せていない。
ただ、東京駅駅舎など保存される事例も出てきているので、今回の外苑再開発の話もそこを中心とした運動にした方が賛同が得られたのではないか?
…というような事を言っていて、これはなかなかナルホドと思いました。
現代日本人の総意みたいなものとして、江戸時代以前の寺社仏閣みたいなのはちゃんと保存されるべきだが、「近現代建築遺産」みたいなものは別にどうでもいいんじゃない?みたいなムードが凄く渦巻いているところがあるのは確かだなと感じています。
それでも、例えば東京駅は、今回の神宮外苑再開発で使われた「空中権取引」と全く同じスキームで資金を調達してあの駅舎が残ったんですが、ライトアップした駅舎を丸の内側から見た時の風景は「インスタ映えポイント」になっていて、結婚式の写真撮影とかでもよく使われているらしく、多くの人に「残して良かった」と思ってもらえるポイントにはなっている。
だからそういう「気持ち」が人々の間にゼロか?というとそういう感じでもないのかも。
今回の神宮外苑再開発も、「木を一切切るべきでない」という話ではなくて、むしろそういう「日本国の近代建築遺産」の方の保存の方をメインに呼びかけると反応が変わったかもしれない…という彼のコメントは結構なるほどと思いました。
ともあれ、ここ以後は、そういう「近現代建築遺産に対する日本人の冷淡さ」はどこからくるのか?みたいな事についてちょっと話を広げて色々とそもそも論を考えてみたいと思っています。
それはまあ要するに、「明治〜昭和」の戦前日本だけでなく、「第二の敗戦」みたいに言われることもあるバブル期の歴史も含めて、日本人自体があまりそれを「ポジティブに受け止めること」自体を禁じられてきた…というような流れがあって、一方では強烈に「自虐史観をはねのけろ!」という話がある一方で、世の大勢的には「別にあんなの残さなくてもいいんじゃない?」、みたいな反応になってしまいがちなところがあるんだと思いますが。
そこに対して、
・「大日本帝国は、一切全く何も悪いことなどしていないのだ!」みたいな無理やりな形ではなく、
…かといって、
・例の「ドイツ人のナチスに対する反省法」みたいな、結局ロシアの増長を招いて戦争に繋がってしまった単なる「欧米人の自己満足の懺悔ゲーム」でもない
…ようなアプローチが、今の国際情勢なら新しく可能になっているはずだ、という話をします。
人類史の不可避な流れの中で日本人が脈々と担ってきたひとつの流れには、決して人工的な枠組みで否定しきれないものがあるのだ、というような一貫した論理を、現行の国際情勢の大問題を解決しうる新しいストーリーテリングとして展開していくとき、そこに「日本の近現代建築遺産も守られるべきだよね」という機運も回復することが可能になってくるでしょう。
それはフランス革命以後の「人類史の歴史」全体を、欧米と非欧米を本当に対等な形で捉え返しつつ、「欧米的理想」を非欧米から全拒否にされないように「根付かせていく」粘り強いプロセスをエンパワーしていくことに繋がります。
それこそがこれからの日本の役割なのです。
■
つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年5月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。