徳と才

フリードリヒ・ニーチェ(1844年-1900年)の言葉に「才能が一つ多い方が、才能が一つ少ないよりも危険である」というのがあります。之についての私見を以下述べておきます。

先ず、人間各々がどういう才をどれだけ有するかを見極めるは難しく、そう簡単に分からないと思います。その上で、才能は多いに越したことはないのですが、余りに多く様々恵まれていると結局絞り難くなるのかもしれません。そして十分に絞り切れない場合、努力が分散してしまい成果に繋がるものが少なくなるリスクが考えられます。あるいは余りにも色々な事柄に興味・関心を持つため、一つの事への集中力が削がれ、努力の継続性が保たれない、といったこともあるかもしれません。

「人があれもこれも成しうると考える限り、何も成しうる決心がつかない」とは、オランダの哲学者・スピノザ(1632年-1677年)の言葉です。大事なのは優先順位付けであって、数多の選択肢より何を選び出し何に全総力を傾けて一定期間没頭できるかだと思います。そのためには自分の本質というものを自分自身できちっと知り、「恒心…常に定まったぶれない正しい心」を保つことが肝要です。千変万化する状況の中プライオリタイズし直しながら、常々世のため人のためになる何かに情熱を燃やし、強い意志を持って是が非でも成し遂げようと粘り強くやり抜くのです。私利私欲を排し世のため人のため尽くす気持ちを失わない人が、終局天より守られて才花開き、後世に偉大な成果を残すものです。

才一つの多寡よりも危険なのは、徳が不十分なことであります。『論語』に、「驥(き)は其の力を稱(しょう)せず。その徳を稱するなり」(憲問第十四の三十五)とあります。孔子曰く、「一日に千里も駆ける駿足を誇る名馬も、その馬の持つ力のみで勝っているのではない。良馬として兼ね備えていなければいけない条件、調教や訓練によって培われた能力、人に例えれば才能と徳があるためである。要するに才能に優れただけではなく、徳を修め徳を磨いて初めて俊足の名馬になる」ということです。才という字は副詞で読むと、「わずか」となります。ですから才能だけあっても、それだけでは僅かに過ぎません。「徳は才の主、才は徳の奴なり」(『菜根譚』)――徳を併せ持って初めてその才能も生き、一人前になり得るのです。

中国・北宋の名臣であった司馬温公(1019年-1086年)の著書『資治通鑑』に、「才徳全尽、之を聖人といい、才徳兼亡、之を愚人という。徳、才に勝つ、之を君子といい、才、徳に勝つ、之を小人という」とあります。字義的に小人の「小」は「八=微少」と「亅=微細」に分かれますが、どちらも「わずか」ということです。自分の才能を世のため人のため尽くすことの出来る人物が大きい者を、小人に対して君子と言うのです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年6月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。