「民族と国家の5000年史 ~文明の盛衰と戦略的思考がわかる」(扶桑社)では、ロシア史を詳しく多角的に扱ったが、本日はその中から、イワン雷帝とレーニンにもモンゴル人のDNAが混じっているという話を紹介する。
多くの人がロシアは、「タタールの軛」といわれるキプチャク汗国の支配への反抗から生まれたと信じているが、少し違う。ロシア国家の原点であるギリシャ正教を信じるキエフ大公国の残党は、ロシア北部にあってモンゴルに服属していた。カトリックの十字軍であるドイツ騎士団が西からモンゴルを攻めてきた時に、モンゴル側に立って撃退したのが、エイゼンシュタイン監督でプロコイエフが音楽を書いた「アレクサンドル・ネフスキー」という映画の主人公だ。
この功績で、子孫はモスクワ大公国で幅広い自治を認められた。そして、イワン3世の時に独立、イワン雷帝(4世)のときにツァーを名乗った。そのイワン雷帝はモンゴル人の英雄の血を引き、東洋的な臭いがする専制君主として帝国の基礎を固めた人だった。
帝政ロシアを収めたロマノフ朝は、このイワン雷帝の妃の兄の孫から出ているというのは、「英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語」(小学館 八幡和郎・篠塚隆)で解説している。
さらに、革命家レーニンは複雑な混血児で父祖は、モンゴル人の一派であるカルムコ人だ。ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフが本名だが、モンゴル族のうち新疆にいたオイラート人が、ボルガ河畔に移り住んだものとか、モンゴル人と一緒に帝国経営に参加したとかテュルク系とかの血を引いている。
また、ロシアとウクライナの抗争の地であるクリミア半島には、18世紀までキプチャク汗国の後裔であるクリミア汗国があってロシアの黒海進出を阻んでいた。
中央アジアのウズベキスタンやカザフスタンなどは、チャガタイ汗国が分裂してできた小国家がもとになっている。そのチャガタイ汗国の武将の子孫がインドに移って建国したのがムガール帝国だが、それはあとで紹介したい。
さらに、 大元帝国は大都(北京)から撤退した後も、中央アジアまで影響下に多くモンゴル帝国(北元)としては生き延びる。1636年になって、満州族のヌルハチの後継者であるホンタイジは、北元が持ち続けていた中国皇帝としての玉爾を手に入れ、満漢蒙三民族共通の皇帝であることを宣言した。これが清の成立だ。
そして、その清の継承国家が中華民国、ついで中華人民共和国なのだから、いまの中国はチンギスハンのつくった国の継承者ともいえる。
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