華がある人

あるファッション誌の公式サイトに以前、『〝華がある人〟の特徴・共通点とは?100人アンケートの結果と心理カウンセラーのアドバイスを紹介』(20年9月23日)と題された記事がありました。そのカウンセラーは文末、「そもそも〝華がある〟という意味は、華やかさや華々しさを備えた様子を表す」と言われて後、次のように続けられています――人の印象に関する調査が様々な大学で行われていますが、共通している結論のひとつが〝最初の見た目の印象は、その後その人に対しての印象に影響を与える〟というもの。よって、まず見た目が一般的な人よりいい意味で目を引いている事は大切です。それに加えて、内面もキラキラしていると、その相乗効果により、華やかで〝華がある〟と感じさせる事になります。

人を見分けるは時間が掛かるもので、人は必ずしも見掛けによりません。孔子でさえ澹台滅明(たんだいめつめい)という人物が入門して来た時、余りにも容貌が醜かったため「大した男ではなかろう」と思っていたら、実は大人物であったという失敗談が『論語』にもある位です。ちなみに澹台滅明は、同じく孔子の弟子である子游(しゆう)が武城という国の長官となった時、部下として取り立てられ、その公平さを賞賛されています。

此の世の中、ある程度華やかで見栄えがするような人もいるにはいます。しかし内面や如何にとなると、その多くで内面迄はクエスチョンマークが付いてきます。何を以て華とするかは難しいところですが私見を申し上げれば、内外両面バランス良く備わってはじめて一種の人間的魅力を有し、本当の意味での華になって行くのだろうと思います。『論語』の「雍也第六の十八」に孔子の言、「質(しつ)、文(ぶん)に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬(ひんぴん)として然る後に君子なり」とあるように、「質朴さが技巧に勝れば粗野になる。技巧が質朴さに勝れば融通の利かない小役人然となってしまう。修養で身につけた外面的美しさと内面の質朴さがほどよく調和しバランスがとれていて、はじめて君子といえる」のです。正に、文質彬彬として然る後に華なり、でしょう。

飾り立てているだけでは、文質はバランスされません。それは見掛け倒しというものです。人は本当に分からぬものですが他方、時の経過とその人に関わる出来事は人の本質的な部分を露わにします。華が一時あるよう見えたとしても、直ぐ鍍金(めっき)が剝げてしまうわけです。文質のバランスが取れているとは、その文がどっしりとあることが大前提です。内面が素晴らしい人の言動或いは立ち居振る舞いには、様々あらわれてきます。内容ある話ができる人物に対しては、外見上見る目もまた変わってくることでしょう。そうして人に時間を掛け見続ける中で人物像は浮かび上がるもので、それが文質彬彬としていたならば華がある人と言えるのかもしれませんね。

最後に本ブログの締めとして、明治の知の巨人・安岡正篤先生の言を御紹介しておきます。次の言葉は『孟子』、「面(おもて)に見(あらは)れ、背に盎(あふ)る」より述べられたものです。「前はつくろえるが、後はごまかせ」ません――人間は面よりも背の方が大事だ。徳や力というものは先ず面に現れるが、それが背中、つまり後姿―肩背に盎れるようになってこそ本物といえる。後光がさすというが、前光よりは後光である」(『照心語録』)。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年6月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。