6月25日に「産経電子版」が報じた「プーチン大統領、対日戦勝法案に署名 『非友好策』に対抗」との記事は、この国の相変わらずの「臆面の無さ」を筆者に再認識させた。読みかけていた『「東京裁判」国際シンポジウムー東京裁判を問うー』(講談社学術文庫:以下「シンポ」)の記述の影響もある。
記事の内容は、プーチン大統領が24日、ウクライナ侵攻に伴って対露制裁を科した日本の「非友好的政策」への対抗措置の一つとして、これまで「第二次大戦終結の日」としていた9月3日を「軍国主義日本への勝利と第二次大戦終結の日」に名称変更する法案に署名したというもの。
一方の「シンポ」は、巣鴨拘置所跡に建つ池袋サンシャインシティで83年5月末に開催された。48年11月までの約2年半に423回開かれた「勝者の裁判」から35年が経ったことから、改めてこの裁判の「法的判断及び史実評価を批判的に分析」し、その「限界と可能性を明らかに」する試みだった。
当時、創立70周年記念事業の一環で記録映画「東京裁判」を制作した講談社は、「シンポ」を映画公開に先立って「同裁判を多面的・複眼的に見直す契機」とすべく、シナリオを考査した安藤仁介(国際法)と細谷千博(外交史)に大沼保昭(国際法)を加えた3氏に企画と準備を依頼し、開催に漕ぎつけた。
司会進行役を上記3氏に、以下を報告者・パネラー(肩書は当時)とし、東京裁判の弁護士だったJ・ファーネス、A・ブルックス、滝川政次郎、そして松井石根とパルにゆかりの田中正明、松平康東元国連大使、法学者の高野雄一、「私は貝になりたい」を演出した岡本愛彦らも質問者として加わった。
- A・E・ルニュフ:ソビエト社会科学院法と国家研究所長
- クヌート・イプセン:西ドイツルール大学長
- R・J・プリチャード:ロンドン大歴史研究員・東京裁判速記録編集者
- B・V・A・レーリンク:東京裁判オランダ代表判事
- リチャード・マイニア:マサチューセッツ大教授
- タン・トゥン:マンダレー大教授
- 白忠鉉:ソウル大教授
- 兪辛トン:中国南開大教授
- 家永三郎:東京教育大名誉教授
- 奥原敏雄:国士館大教授
- 児島襄:作家
- 粟屋憲太郎:立教大教授
- 秦郁彦:拓殖大学教授
- 萩原延寿:歴史研究家
- 木下順二:劇作家
- 鶴見俊輔:評論家
議事は「国際法」「歴史」「平和探求」の三つの「視点から」それぞれ数名の報告者が発言し、それにパネラーからのコメントと質疑応答がなされる形式で進められ、最後にマイニアから「個人・国家・東京裁判-問題点と可能性」、家永から「東京裁判の歴史的意義」が報告された後、全体討論が行われて二日間の日程を終えている。
ルニュフの報告
筆者に影響した「シンポ」の記述とは、冒頭と掉尾に俎上に載った「ソ連による日ソ中立条約破棄」に係る議論だ。そもそも筆者には、45年8月10日にはスイスを通じて米国にポツダム宣言受諾の意向を表明していた日本に対し、8月8日未明に中立条約を破って対日参戦したソ連に、裁判への参加資格があるのかとの疑念があった。
最初の報告者ルニュフは、「ソ連が東京裁判に参加した法的根拠」について次の要旨を述べた。(以下太字は筆者)
日本の対外拡大目標が34年に立案され、ソ連極東とシベリアが占領目標にされたことが立証されている。36年から40年にかけて日本は、ドイツとの防共協定に掲げられている思想に基づき、ソ連侵略の準備に従事した。対ソ侵略同盟はイタリアを加えた40年の三国同盟で一層強化された。
日本は日ソ中立条約の廃棄通告なしに、独ソ戦になればドイツを援助する保障を与えた。41年には対ソ侵攻計画の準備を行い、沿海州からバイカル湖に及ぶ占領地域の施政計画が承認された。日本が38年の張湖峰と39年のノモンハンでソ連に対してとった侵略的軍事行動はソ連の軍事力を試す機会だった。
ソ連は昔も今も積極的な平和の擁護者であり、侵略戦争に一貫して反対してきた。ソ連憲法は第二十八条で「ソ連はレーニン主義にもとづく平和政策を追求し、諸国民の安全保障および広範な国際的協力の強化に賛同する・・。ソ連では、戦争の宣伝は禁止される」と宣言している。
この報告に対してソウル大の白教授は次のようにコメントした(要旨)。
ルニュフ教授はソ連の行為の正当性の理由を述べ、なぜ対日戦争に入ったのかを長々と話された。しかし、なぜ同じような論理を用いて、日本の真珠湾攻撃が正当化されないのだろうかということに疑問がないではない。このような正義のダブルスタンダードは、明らかに国際法の権威を根底から傷付ける。
重光葵の担当弁護士として東京裁判の場に立っていたファーネスもルニョフにこう問うた(要旨)。
日ソ中立条約に基づく中立は、ソ連が満州に入っていった時はまだ有効だったはずだ。お聞きしたいのは、満州国に日本が軍を集結したのは自衛のためであったのに、ソ連は満州国境に軍を集結し、その際、宣戦布告をして攻撃し、侵入し、日本軍に対し、二週間位以内に勝利を収めた経緯がある。これに関してお答え願いたい。
ルニュフの次のように答えた(要旨)。
日本に宣戦布告する前に、ソ連は他の連合国と協議の上で日本に降服し、戦闘をやめるように提案した。ソ連はドイツとの戦いで大きな損害を被っていたので、これ以上の双方が損害を出すことは避けたいと思っていた。しかし残念ながら日本は提案を拒否した。そしてソ連は他の連合国との義務に従って、対日戦争に入った(ファーネスの反論あるも聴取不能)。
ルニュフの報告と質疑応答はこれで一旦終わった。が、シンポの掉尾に家永三郎が行った「東京裁判の歴史的意義」と題する報告は、ソ連の立場を擁護する形で再びこの件に触れた(要旨)。
家永の主張
東京裁判が「勝者の裁判」としての側面を持つことは否定できない。連合国側の違法・犯罪行為がはじめから審理の外に置かれていたこと、ことに広島・長崎への原爆投下の如き無差別大量虐殺が取り上げられなかったことは、パル少数意見の指摘する通りだ。
原爆投下以外にも、通常兵器による多数の非戦闘員殺傷を行った米空軍の爆撃や、ソ連軍人による日本人非戦闘員に対する殺傷・略奪・強姦等、これは旧満州、中国東北で起こったことであって、私は、日ソ中立条約は日本が先に破ったと考えているので、日本にはソ連を非難する道義的な資格がないと信じるが、しかし旧満州におけるソ連軍の非人道的行為は免責されないと思う。
関東軍特種演習(関特演)については、林健太郎氏との論争で詳しく論じているが、簡単に申せば、それは単なる軍備の増強ではなく、41年7月2日の御前会議に基づき、天皇の允裁を経て参謀本部が動員令を出して、八十万の大軍をソ連国境に集結、シベリアの占領行政の計画や開戦後の満洲国の取り扱いまで定めた戦争準備の行為であり、戦闘行為に移らなかったのは客観的情勢が好転しなかったからで、自発的に日ソ中立条約に忠実ならんとして中止したのではない。
つまり、ルニョフが太字部分にいう「41年の日本対ソ侵攻計画の準備」とは家永のいう「関特演」であり、それによって日本はソ連に先んじること4年前に日ソ中立条約を破っていたという訳である。林健太郎との論争について家永は『戦争責任』(岩波現代文庫)でこう述べている(要旨)。
林氏は、法律は実際に行われた行為に対して適用されるもので、心の中で考えたことは法の適用の範囲外であり、関東軍にどんな計画があろうと、それが実行されなかった以上、法律の問題は生じない、と主張したが、具体的な行動を伴っていた。領土の侵犯は実行されなかったが、法律は既遂行為の責任を問うばかりでなく、危険性の大きい重大な行為については、未遂、あるいは予備・陰謀の行為の責任を問う。
同書では家永は、ルニュフが、張湖峰やノモンハンで「ソ連に対して日本がとった侵略的軍事行動はソ連の軍事力を試す機会だった」と述べたことについても、ルニョフと全く同じ主張をしている。
家永はこう言う。すなわち、45年8月に対日攻撃を開始するまでソ連=ロシアによる日本国内侵略は、幕末の対馬占領を除いて、行われていない。が、日本は、第一次大戦末期のロシア革命で社会主義政権が成立すると、英仏米と共に反革命軍を援助して革命政権の確立を妨害する干渉戦争を行い、22年まで東部シベリアと樺太北部の占領を継続した。
中国侵略から始まった15年戦争では、日本軍部は中国を前進基地としてソ連侵略の意図を抱いていた。たとえ国家意志として採用されなかったとしても、軍内部に潜在する対ソ侵略意図の表れと見てよい。日本軍は、朝鮮や満州とソ連との「国境線が不明瞭」であるのに、国境地域でのソ連軍の行動を「不法」と見做し、故意に衝突を惹起させて局地戦争を繰り返した。
(中編に続く)