「マルクス」は本当に蘇ったのか

「ヨーロッパに幽霊が出る―共産主義という幽霊である」……これはカール・マルクス(1818年~1883年)とフリードリヒ・エンゲルス(1820年~1895年)によって書かれた書籍「共産党宣言」の冒頭に出てくる有名な一節だ。1848年に書かれてから今年で175年目を迎えたが、マルクスが言った「幽霊」が再び蘇ってきた、とはいわないが、少なくとも、「マルクス」という言葉が例年になく多くの人々の口から飛び出してきているのを感じるのだ。

カール・マルクス Wikipediaより

最近では、オーストリアの野党第一党「社会民主党」の新党首バブラー氏が一時期、マルクス主義者だったことがメディアで報じられた。社民党の党首選が6月初め実施されたが、投票集計でのドタバタ劇後、アンドレアス・バブラー氏(トライスキルへェン市長)が新党首に選出された。党首選前に、そのバブラー氏自身が「自分はマルクス主義者だ」と語った昔の録音テープがメディアにリークされた。バブラー氏はその直後、「若い時代の発言だ。自分はマルクス主義者ではない」と弁明した、という話がニュースになったばかりだ。

冷戦時代、ソ連・東欧共産圏から多くの政治亡命者がオーストリに逃げてきた。オーストリア国民はマルクスの書籍を読んでいなくても共産党政権が如何に国民を蹂躙し、弾圧しているかを身近に目撃してきた。「労働者の天国」を標榜してきたソ連・東欧共産党政権は実は“赤い貴族”(共産党幹部)が労働者、国民を統制する政府であったことを見てきたからだ。それゆえに、同国でも政党として共産党は存在するが、戦後から今日まで連邦レベルで議席を獲得したことがない。

その共産党がオーストリア第2の都市グラーツ市の市長選(2021年9月26日実施)で勝利し、ザルツブルク州議会選(2023年4月23日実施)で議席を獲得したのだ。メディア関係者は選挙結果に驚き、「なぜ今、共産党が…」というテーマを掲げて、キャンペーンを展開した(「オーストリア第2都市で共産党誕生」2021年9月28日参考)。

グラーツ市長選の場合、共産党候補者は自身の給料の多くを貧困者救済に献金してきた政治家として有名だった。また、ザルツブルク州共産党は物価やエネルギーの高騰で困窮する州民の住居問題の解決に全力を投入し、家賃の高騰を防ぐ運動を繰り返してきたことで知られてきた。両者とも選挙で既成政党に批判的な有権者の支持を得て、飛躍した。

オーストリアでは連邦議会選は来年秋に実施される予定だ。共産党は連邦議会で戦後初の議席獲得を目指して動き出してきた。オーストリア共産党はマルクス主義の理論論争などにはまったく関心がない。生活苦の国民の心を掴むために集中しているのだ。その作戦はこれまで成果があったが、連邦議会選でも通用するかは不明だ。なぜならば、連邦レベルの選挙では党が全土をカバーできるだけの人材、組織、資金を有していることが重要だからだ。

ロシア軍のウクライナ侵攻以来、オーストリアは依然、10%前後のインフレ率であり、エネルギー代は例年のほぼ2倍から3倍だ。国民の多くは生活苦に陥っている。例えば、ウィーン市共産党は低所得者や年金者を対象に無料食事の提供や食糧の配布を行っている。同党のパンフレットには、「弁当箱を持参のうえで私たちのところに来てください」と書かれている。

昨年から今年にかけ「マルクス」という言葉をよく聞くようになったことは確かだが、マスクス・エンゲルスが構築した共産主義世界観に共鳴する国民が増えたわけではないのだ。国民の生活がウクライナ戦争などの影響で一層厳しくなってきたからだ。一人の老婦人は、「電気代を節約するために家では温かい料理はせず、カリタスなどの慈善グループが提供する無料食事で生き延びている」と語っていた。国民の貧困は深刻なのだ。

だから、21世紀の共産主義者は貧困下に悩む国民に向かって「再分配」問題に集中する。オーストリアのトビアス・シュヴァイガー共産党報道官のような新共産主義者は、「丁寧に社会的負担の分担」を呼びかける。「生産手段」の破棄などは絶対にテーマにしない。参考までに、オーストリア共産党では、「資本論」も「共産党宣言」も党員の必読書ではないという。

ウィーンの哲学者リシュ・ヒルン(Lisz Hirn)氏は5月25日の日刊紙スタンダートで、「新共産主義者は慈善活動に力を入れている。その無私無欲さは中世の巡回説教者を彷彿させる」と表現している。政治、経済、社会の全般を網羅する大著「資本論」をまとめたマルクスは21世紀の新共産主義者を見てどのように感じるだろうか。「革命の同志」か、それとも理論には無関心で慈善活動に熱心な「キリスト教的伝道師」のように感じ、「私の著書は不本意にも誤解されている」と嘆くだろうか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年7月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。