ウィーンには世界最古の動物園「シェーンブルン動物園」がある。ハプスブルク王朝時代の1752年に開園された動物園で現在は700種類の動物・鳥類、総数7800頭(匹)がいる、ゾウ、チンパンジー、北極熊、そして中国からきたパンダまで、固有の名前(愛称)を持っている。動物園を訪れる子供たちも「ヤンヤン(パンダの愛称)はどこ」といった具合に、特定の動物を見に来るケースが多い。
通常、愛称で呼ばれる動物たちは動物園にとって訪問者を引き付けるスーパー・スターだ。例えば、かつての子象Numbi、北極熊のBabyだったNaniq、そして北京から派遣された頃のパンダYang Yang、といった具合だ。だから、訪問者も愛称で動物たちに親しみを覚える。
それが突然、「今後は動物園の動物の固有名は使わないことにする」と動物園の園長が発表したのだ。これまで親しまれてきた名前を中止するというのだ。驚いたのは子供たちだけではない。夏枯れでテーマを探していたメディア関係者も速報で、「シェーンブルン動物園の動物たちは名前なしになった」と報道。オーストリア国営放送(ORF)のニュース番組でも大きく報じられ、大衆紙は動物たちの写真を掲載して名前を失った動物たちの行く末を案じている。
シュテファン・へリング・ハーゲンベック動物園長は、「動物園としては新しい決定だ。個々の動物を重視するというより、ゾウ、サル、クマといった動物の種をよりアピールしていくためだ」と説明、ただし、動物園の広報官によると、「毎日、動物たちを世話している作業員たちはこれまで通り、動物たちを愛称で呼ぶ」という。動物園関係者にとってはこれまで通りだ。動物たちとの間のコミュニケーションが重要だからだ。
それでは「どうして動物の愛称呼ばわりを止めるのか」という質問に対し、「シェーンブルン動物園は動物園の主要課題である動物の種の保護に力を入れていくという意思表明だ。世界では多くの動物は絶滅の危機に瀕しているからだ」という。例えば、クロサイ、トラ、アフリカゾウ、アビシニアジャッカルなど全世界には絶滅の危機に瀕している種は3万7400種以上だという。絶滅危惧種が増加する理由は、自然淘汰だけではなく、人間の活動が大きく関与しているといわれている。
最近、イタリアやオーストリアでオオカミやクマがエサがなくなったので山を下りて人間が住んでいる地域まで侵入し、さまざまな被害をもたらしているというニュースをよく聞くようになった。
「シェーンブルン動物園」が動物を今後愛称で呼ぶのを中止するという決定に対し、「まったく理解できない」「ナンセンスだ」といった批判的な声が多い。ORFのニュース番組のアナウンサーは、「動物たちを今後私たちはどう呼べばいいのだろうか。チンパンジー1、チンバンジー2といったふうになるのだろうか」と話していた。
ところで、人類の始祖アダムとエバの最初の仕事は自分たちの周囲にいる動植物たちに名前を付けることだったといわれる。「エバ、あの大きな動物をゾウと呼ぼうよ」「アダム、湖を泳いでいるあれは白鳥と呼びましょう」といった具合だ。
それから長い時間が経過し、動植物の種は増え、繁殖していった。多分、動物たちが「総称」から「固有名」を得たのは人間と動物たちの関係がより深まっていったからだろう。人間は愛する動物たちを自分が付けた名前で呼びたくなる。アダム・エバから受け継いだDNAだ。
日本が一時期、ロボット工学の分野で世界の最先端を走っていた時、米国の理論物理学者ミチオ・カク氏は著書「未来の物理学」の中で、「日本人はロボットにもあたかも人間のように名前を付けて声をかける」と指摘し、日本のロボット工学の発展の背景には「日本人とロボットの間の独特の人間的交流にある」と説明していたことを思い出す。
話を動物園の愛称問題に戻す。動物園の使命が種の保存であるとすれば、特定の動物だけにスポットライトが当たるような状況は避けるほうが得策かもしれない。ただ心配は愛称を失った動物たちの精神的障害だ。
新型コロナウイルスのパンデミックでロックダウンが実施された時だ。動物園も閉じられた。日頃、動物園の訪問者の人気者だったオラウータンは自分を愛称で呼んでくれる訪問者が突然いなくなったので困惑し、欝になってしまったという話を聞いたことがある。
「シェーンブルン動物園」の動物たちが欝にならないことを願う。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年7月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。