科学者・研究者だけでなく一般市民も声を上げるべき理由

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以前にも書いたことであるが、科学・技術が大きく進歩した現代社会の中で、特に科学・技術が強く関与する政策に意見を述べることは、簡単でない。その分野の基本的な知識が要るだけでなく、最新の情報を仕入れる「知識のアップデート」も不可欠だから。それで、公的な場で発言するには勇気がいる。

「権威主義」との闘い:ノーベル賞の政治化が科学を殺す
元静岡大学工学部化学バイオ工学科 松田 智 日本では「ノーベル賞」は、格別に尊い存在と見なされている。毎年、ノーベル賞発表時期になるとマスコミは予想段階から大騒ぎで、日本人が受賞ともなると、さらに大変なお祭り騒ぎになる。日本人は一般に「権...

そのため、つい「専門家の御宣託」に頼るケースが多いのだが、この「専門家」がまた油断ならないわけだ。

筆者の見るところ、TVや大手マスコミに出てくる「専門家」の多くは、大資本や政府の宣伝役=スポークスマンである。その証拠に、彼らの主張として、例えば温暖化関連では人為的温暖化説を疑いないものとして脱炭素政策を宣伝し、コロナ関連ではワクチン打て打てを繰り返し、福島の処理水放出に関してはIAEAの報告書を「科学的」だとして賞賛する。その反対意見が出てくることはほとんど無い。つまり、情報が最初から「一色」化している。多様性がない。

マスコミ等の情報洪水にさらされてこの種の「通説」が耳になじんでしまうと、これらに対する意見反論は、何か不快な刺激のように捉えられるケースが多い。特に日本では、何かの意見に対する応答が、言っている中身自体ではなく「誰が言ったか」で左右される場合が多いと思う。

これはある種の「偶像崇拝」とも言える。つまり、大学教授のような社会的地位・肩書きのある人、マスコミが認めた専門家とか有名人の発言ならば「そうかもな・・」と頷き、無名の一般人の発言だと「何だこいつは?生意気なんじゃないの?」と反応する。

要するに、権威主義そのものと言える。有名人にはひれ伏し、無名人には居丈高に振る舞う・・。そんな態度、情けなくないのかね?

筆者の前回論説にも、これに近い書き込みがあった。「一般人が科学者気取りで判断するのはおこがましすぎる」と。一般論としてコメントにいちいち反応するのは避けたいが、この書き込みはひどすぎるので取り上げる。なぜなら、こうした考え方は危険で、有害でさえあるから。

第一の問題は、上記の「発言の中身でなく、発言者で判断」していること。前回筆者が指摘したのは、誰でもネット等から得られるデータ・事実から、専門家でなくても人為的温暖化説の矛盾点には気がつくはずだ、と言う点だった。

この発言の中身こそが眼目なのに、こちらはスルー。一つ追加すると、筆者は確かに無名だが、科学の素人ではない。科学者を「気取って」などいない。これまでアゴラに書いたものだけでも、読んでいただきたい(他に英語専門論文や著書もあるが、ここでは紹介しない)。

第二は「おこがましい」と言う評価。これは要するに「素人は引っこんどれ、専門家に任せなさい」という態度だが、これこそが「専門家への過信」という危険な隘路に落ちる道なのだ。なぜなら、科学・技術はウソをつかないが、科学者・技術者はウソをつくから。

その大元には、政府自身がウソをつくと言う事実がある。堤未果「政府は必ず嘘をつく 増補版」(角川新書)にも書いてある。曰く「国民がいつまで経っても自分の頭で考えようとしなければ、体制側は情報操作のレベルを上げられる。結局は与えられた情報を鵜呑みにしてしまう。」と。

全く、その通りだと思う。実際には事態は複雑で、この種の告発を「陰謀論」だ「デマ」だと言って貶める論説も必ず出てくるものなのだが。

そこで大切なのは、科学・技術に関わる政策の意思決定に対しても、一般市民が「素人の目」で見て何か変だな、と言う違和感があれば率直に表明できる場と雰囲気作りだろう。「専門家に任せなさい」は、多くの場合、危険なのだ。王様が何を着ているのか着てないのか、素直に見る裸の「目」こそが大切だ。

その具体的な例として、筆者は原子力市民委員会の存在と、処理水放出に対して彼らが最近発表した「見解」を紹介したい。国の原子力政策と言う高度に科学・技術的な問題に対し、市民と科学者が共同して意見をまとめた希有の例である。しかしこれも、大手マスコミやTV報道にはほぼ出てこない。従って、多くの国民には知られていないだろう。

処理水放出に賛成の人も反対の人も、まずはこの「見解」をしっかり読むと良い。ここには、科学的な根拠に基づく冷静な議論が展開されており、無意味なスローガンの羅列などは一つもない。議論するなら、まず、このような資料を基に行うべきだろうと、筆者は考える。

実は、筆者の願いは、温暖化や脱炭素の問題に関しても、この種の「市民委員会」が設立されることなのである。市民が誰でも参加でき、良心的な科学者に集まってもらい、国の政策に対して自由に意見を言える市民組織である。もちろん、良心的なジャーナリストにも大いに参加していただきたい。現状のジャーナリズムの在り方に危機感を抱いている人は少なくないはずだから。

「気候危機は存在しない」という2019年の科学者たちの声明には、日本語版もある。そこには4名の日本人科学者の署名がある。このような方々を中心に、種々の市民・科学者が結集することを望む。

日本ではまだ紆余曲折があると思うが、人為的温暖化説のインチキがバレて、脱炭素政策に科学的根拠がないことは、事実を基に、いずれ明らかになるはずだと筆者は考えている。

すでに、2019年7月にはイタリアの科学者集団が「人為的な要因による地球温暖化という説は科学とはいえない」ということを全会一致で決議し、請願書をイタリア政府に提出した例がある。さすが「それでも地球は動く」のガリレオ・ガリレイを生んだ国。(真正)科学への信頼度が違う。

日本で言えば、学術会議が政府に「温暖化対策や脱炭素政策は、非科学的だから止めなさい」と進言するようなものだが、できるかなあ、今の学術会議に・・?

しかし問題は、人為的温暖化説や脱炭素を否定し去って、それで問題が解決するかと言えば、全くそうではないことだ。その後にこそ、大きな問題が控えている。

それは、

1)化石燃料が枯渇した後に、どんな持続可能社会が作れるのか?
2)加速度的に進化する科学・技術に、人間はどう対応・適応すべきか?

と言う問題である。これらはかなりの難題であり、しかし一方、これからの社会に生きる誰にも関わる切実な重要問題である。

1)について、化石燃料は当分なくならないとは思うが、実際に枯渇したら、今のままでは大変だ。再エネ設備も原子力のウラン濃縮も化石燃料消費で供給されているのだし、日本などでは食料の大半も原資は輸入化石燃料だ。枯渇後は、どうやって食っていくのだ・・? 先の話だが、今から考えておかないと。以前少し論じたが、熱機関に代わる動力源の開発など、難問が多い。

2)に関しては、科学・技術の世界は専門分化が極度に進んで、少し専門が異なるともはや話が通じにくくなる現象が、すでに生じている。一方で、何らかの政策課題に対して科学・技術が関わるケースは、今後増えることはあっても減ることはないだろう。

筆者の専門に近い環境・エネルギー・廃棄物処理等だけでなく、情報処理(デジタル化そのもの)・通信・交通・医療・農林水産から各種産業技術にいたる、あらゆる分野でそうであり、かつ全ての分野でAIが活用されることも間違いない。技術の「中身」やプロセスの多くの部分は「ブラックボックス」になる。つまり、途中で何が行われているかは不明で、結果だけが出力されるのだ。軍事技術が、特に怖い。

このような状況で、全てを「専門家」や官僚組織に任せることは、多分、極めて危険であるだろう。一般市民と科学者・研究者の共同作業が必要な所以である。