現実主義者の核廃絶論:日本は「核」とどう向き合っていくべきか?

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外交評論家・元外交官 金子 熊夫

第78回目の広島、長崎原爆投下記念日がやってきました。とくに今年は、ウクライナ戦争で行き詰まったロシアが局面打開を狙って戦術核兵器を使う可能性が懸念されており、世界的に不安が高まっています。

こうした不穏な状況の中で、5月に被爆地・広島で開催された主要7カ国首脳会議(G7サミット)では核の脅威が大きく取り上げられ、核軍縮への努力を謳った「広島ビジョン」なるものが採択されました。各国首脳が揃って原爆ドームの前で犠牲者に黙祷し、献花したことも有意義なことでした。

被爆者たちの不満と落胆

しかし、広島や長崎の被爆者たちの間からは、サミットの成果は全く不十分だったとの不満の声が聞かれます。「広島ビジョン」では核廃絶へのはっきりした道筋が示されていなかったからです。

首相官邸HPより

私事ながら私自身、かつて退官後の一時期、1990年代の約10年間、広島、長崎両市長の外交顧問のような立場にあり、被爆者たちとも緊密に交流していましたので、その方々の切実な気持ちは痛いほど分かります。

当時はソ連崩壊、冷戦終了直後で、核軍縮・廃絶への機運が世界的に盛り上がっていました。この時期に、私は、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部の特別顧問の資格で、他の国際NGOと協力して、「北東アジア非核兵器地帯条約」や「核兵器禁止条約」の草案作りにも取り組んでいました。

しかし、その後世界各地で戦争や地域紛争が頻発し、国際緊張が再び高まるにつれ、バラ色の機運は後退し、逆に北朝鮮やイラン問題などで新たな核の危機が叫ばれるようになりました。そこに今回のウクライナ戦争を巡る不穏な動きで、今や核軍縮・核廃絶への機運は すっかり萎んでしまった感があります。

残念ながら、これが国際政治の現実ですが、こうした厳しい現状に対する認識が日本では甚だ不足しており、依然として被爆国特有の「核アレルギー」と、その裏返しとしての情緒的な平和信仰と核廃絶願望が支配的であると思われます。その根底には、現行憲法の他力本願的な「平和主義」があると思いますが、そのことは本欄でも既に何度か触れましたので、繰り返しません。

「核兵器なき世界」の幻想

例えば、オバマ元米大統領が2009年4月、チェコの首都プラハで行った「核兵器無き世界」演説についても、日本では核廃絶の面だけが強調されて伝えられましたが、演説をよく読むと、その後段では、核兵器の脅威が存在する限り米国はこれを抑えるための「核抑止力」をあくまでも堅持すると明言しています。現にオバマ氏は在任中に、米国の核戦力強化のために巨額の予算を承認しました。

プラハで演説するオバマ大統領(当時)
出典:Wikipedia

その後も、米露の核軍縮交渉は遅々として進まず、のみならず、米露戦略核兵器削減条約(New START)の延長にロシアが同意しないので、現在失効状態にあります。

一方、第3の核大国中国は、核軍縮交渉には一切関心を示さず、黙々と核兵器を増産しており、2035年までに現在の3倍、900発にまで増やす計画を公表しています。米国国防総省の予測では2035年までに1500発に達するとしており、そうなると米露と肩を並べることになります。核弾頭の数だけでなく、中国のミサイルは質量ともに飛躍的に向上しつつあります。

ついでに、北朝鮮も着々と核戦力増強を図っていることは周知の通り。ごく最近も、米国本土の東海岸まで届く長距離弾道ミサイル(ICBM)の発射実験を行いました。日本は既に30年前から北朝鮮の中距離ミサイルの射程圏内にあります。

残念ながら、これが世界の現実の姿であり、日本人としては甚だ不愉快ですが、正視しないわけにはいきません。

勿論、唯一の戦争被爆国として日本人が核廃絶の理想の灯を高く掲げるのは大事ですが、核廃絶は一気に達成できるものではないし、日本人の力だけで実現できるものでもありません。それなのに、日本国内だけで通用する理念やスローガンに囚われている限り、日本人は国際社会から益々遊離して行く恐れがあります。この機会に、日本人一般にみられる重大な誤解や偏見、思い込み(思い入れ)を具体的な例を挙げて見て行くことにします。

核不拡散条約についての誤解

まず第一に、ご存知のように、核兵器問題に関する国際条約としては、1970年に発効した「核兵器不拡散条約」(NPT)、通称「核防条約」というものがありますが、この条約は決して核廃絶・核軍縮を定めたものではありません。

米ソ冷戦の最盛期、1960年代半ばに作成されたこの条約は、1967年1月1日現在核実験を行った国、すなわち米、ソ連(露)、英、仏、中国の5カ国を「核兵器国」として、その核保有を公認するとともに、その他の国に核兵器が広がるのを防ぐことを主眼としています。

ですから、5カ国は自由に核兵器を製造できるし、既に持っている核兵器を保有し続けても特段のお咎めなし。核軍縮交渉の規定はあるにはありますが、これはあくまでも「努力義務」にすぎません。NPTが不公平、不平等条約と言われる最大の理由です。

5カ国の核保有は永久に続く

しかも同条約には、当初25年の有効期限が定められていましたが、1995年に、無期限延長が決定してしまったので、この条約は今後永久に存続します。つまり、5カ国の核保有を公認するという実定国際法上の仕組みが永久に続くということです。従って、5カ国の核兵器は、自らの意思で削減・廃棄しない限り、永久に残るということです。彼らが自らの意思で廃棄することは到底考えられません。

理論的には、NPT自体を改正すればよいわけですが、条約改正には5カ国の同意が必要、つまり、「拒否権」が認められているので、改正は事実上不可能です。国連憲章が中々改正できないのと同じ理由です。

もし核兵器が無くなるとすれば、それはどんな時か?

では、核兵器は永久に絶対に無くならないかと言えば、私は無くなる可能性はゼロではないと思っています。それは、ズバリ言えば、将来研究開発が飛躍的に進んで核兵器以上に強力で、しかも管理しやすい(使いやすい)新兵器が生まれた時だろうと思います。例えば新型レーザー兵器やサイバー兵器より  もっと強力な、圧倒的な破壊力を持った攻撃兵器が出来れば、当然核兵器は無用になるはずだから、放っておいても自然に消滅するはずです。

そのような、今まで見たことも聞いたこともないような新しい最終兵器が出現するまでは、現在の核兵器が存続する。それがいつかは分かりませんが、いずれ来るのではないか。それまでは現在の核兵器を核大国が手放すことは決してないだろうというのが私の推論です。

核兵器が無くなっても平和にならない

仮に核兵器が無くなっても、それに代わる、もっと強力な大量破壊兵器が出現すれば、人類の不幸は続くはず。核兵器さえなくなれば世界は平和になるとは限りません。地球上に戦争(武力衝突)が無くならない限り平和にはなりません。

誤解を恐れずにさらに言えば、現在核抑止力がより悲惨な大規模な戦争を防止していると考えれば、「恐怖の均衡」と言われる核抑止力にも一定の効用があるとも言えるのではないか。

例えば、ロシアがウクライナ戦争で核兵器使用をちらつかせても実際の使用をためらっているのも、また、北朝鮮が核ミサイルの発射実験を繰り返しても実際に使うことはないだろうと考えられるのも(将来絶対に使わないという保証はありませんが)、一旦使ったら最後、核兵器で報復を受け大惨事となることを知っており、それが抑止力になっているのだと思います。

まるで核兵器の効用を積極的に是認しているようで、被爆者たちから大非難を浴びるかもしれませんが、これが私が現実主義者として長年考えた末にたどり着いた結論です。

日米同盟に基づく「核の傘」は必要不可欠

ここまで考えてくると、中国、ロシア、北朝鮮と地理的に近く、これらの国が持つ核兵器の脅威に直接さらされている日本にとって、日米安全保障条約に基づく核抑止力(いわゆる「核の傘」)が自らの安全保障のために必要不可欠であることが嫌でも理解できるはずだと思います。座して死を待つことはできませんから。

ヨーロッパでも、冷戦時代にはソ連の、現在はロシアの核攻撃を恐れるドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、トルコの5か国は、米国の核の傘の保護を受け入れています。長年中立を維持してきたフィンランドやスウェーデンもNATO(北大西洋条約機構)に加盟して米英の核の傘の下に入る選択をしています。

被爆国だから、核兵器は「絶対悪」で危険だから、非道徳的だから、という理由で抑止力としての核兵器まで否定するのは筋が通りません。ここは感情論ではなく、理性によって現実的な判断をすべきなのです。

(2023年7月31日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)


編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。