百寿は本当にめでたいか:盲目的延命と見せかけの長寿

五十嵐 直敬

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昨秋、百歳以上の百寿者が9万人余と報道された。百歳超えの人は年々千人単位で増えている。しかしそのほとんどは寝たきりかそれに近い。百寿はほんとうにめでたいのか。

筆者は90年代の在宅医療草創期から訪問看護に携わり、百寿者も10名前後出遭っている。百歳の誕生日祝に総理大臣から贈られた表彰状と手より大きな銀杯を見せて頂いたこともある。紀寿の祝宴で祝盃を上げてくれとは、お国も粋な計らいと感心したものだ。

問題は折角の立派な銀盃で祝い酒を楽しめるのかどうか、元気でそれなりのADL(生活に必要な活動能力)や知性を保っての百寿なのかどうかである。結論を先にすると、百寿者で自立に近い状態で人様に面倒かけずに祝盃を上げられる人は、わずか1割程度と見られる。

断定しないのは、百寿者の要介護度やADL、認知機能についての統計や研究が限られているためだ。毎年百寿者数更新と騒ぐのに、その実態は明らかではない。そこで筆者は限られた論文や統計から、百寿者の実態を映すものを調査した。結果は次の通りである

百寿者のうち歩行でき食事やトイレが介護なしで自立できる人は、1割から多くとも2割。男性百寿者は数は女性よりはるかに少ないが自立かそれに近い人が多いのに対し、女性百寿者のほとんどが寝たきりかそれに近い。認知症の人は8割に達し、女性の方が認知症が多い。

つまり百寿者の9割は女性だがほとんどは寝たきりで認知症。男性の百寿者は少ないが知的にも正常で自立している人はそこそこ居る。全体では心身ともにほぼ自立している人は2割足らず。これが百寿者の実態である。

元気で自立して百寿なら素晴らしいが、寝たきり老人や認知症高齢者が百歳を超えて何万人も「生かされているだけ」、それは本当にめでたいのか? 社会は次の世代はそれを支えられるのか? それが問題である。

長寿は要介護化と認知症とセットである。65歳以上の高齢者の約2割が要介護者であり、これは介護保険制度開始以来ほぼ一定である。同じく65歳以上の高齢者の約2割が認知症、80代で3人に一人90代では2人に一人が認知症と言われる。つまり両親か夫婦のどちらか、運が悪ければ二人とも認知症になる。

日本人は長寿になったが要介護や寝たきり、認知症がもれなくついてくる、なぜか。

高度成長で経済大国となった日本の政権与党は、老人医療費を一時無料化した。人生50年とは戦後しばらくまで、比較的最近の話だ。学歴が低く行政やメディアの啓蒙も不十分で保健意識も低い、医療も今ほど発展していない時代は働いて子供産み育てて50年で体はボロボロ、ガンや認知症になる余裕、いや寿命がなかった。

高度成長でGDPはうなぎ上り、数少ないお年寄りに医療バラマキしても大丈夫、恩着せて票田になると、シニアポピュリズムの始まりである。

しかし老人医療費無料化バラマキで、誰でも安く医療でツギハギ当てられるようになり、どんどん寿命は延伸した。農林水産業従事者が多数の時代また多世代同居なら年寄りにも為すべき役割と居場所があったが、それが核家族化で失われた老人達の居場所は病院になり、サロンとまで揶揄された。

長寿化しても役割無く無為に生きるだけ、逆に「長生き病」ガンになり認知症になり要介護化する。現役世代が支える年金を食み、死生観を持つことも忘れ漠然と死にたくない長生きしたいと言う、今の百寿者は、有能壮健な若者たちが戦場に散華したその世代であるのに。

その果ては胃ろう等の盲目的延命であり、欧米には居ないと言われる寝たきり老人である。老人は無明に死を怖れタダ同然の老人医療でお手軽に延命、医療機関は健康保険から高禄を食む共依存的「医老複合体」となった。

今や国民医療費は年間44兆円、国家予算の半分弱GDPの一割弱に及び、筆者の概算では寝たきり老人医療介護費は年8兆円に達するとみられる。しかし現役労働者若者たちの保険料と血税を吸い上げ、寝かせ切り延命するだけで何も生まない、誰も幸せにならない延命介護ブラックホールだ。

筆者は臨床経験25年余となるが、90年代のお年寄りは「下の世話だけはなりたくない」と皆言っていたが、今どうだろうか。紙おむつは家庭ごみの一割を占めるに至り、環境負荷すら問題になっている。

立てない、歩けない、トイレ自分でできない、さらには話せない食事も自分でできない状態で家族の顔もわからない、のに管を入れ延命する。特養(特別養護老人ホーム、介護老人福祉施設)や老人病院(療養型病院、介護医療院)の入居者はそのような人が大半だ。家族が見舞いに来ない人も多い。公的施設で足りず民間有料老人ホームも今や同様になりつつあるようだ。

寝たきりで食事を口に突っ込まれあるいは管で注入され、オムツを当てられ便尿垂れ流し。それは楽しい、幸せなのだろうか? 家族も来ない、そこに満足できるOQL(生活の質)は尊厳はあるのか?

超高齢化でいよいよ介護職は慢性的に不足となっている。介護保険報酬は決して低くないが、事業者の問題か、介護職の年収は労働者平均を下回る。夜勤しても手取り20万行かない生活できないと意欲ある若手がやむなく離職する。薄給で厳しい肉体労働さらに「感情労働」ゆえか、近年は介護現場での虐待さらに殺人事件も目立つ。頑張った末に線が切れてしまうのだろう。

介護職を使い捨て犠牲にして長寿や百寿が成り立っているとも言える。しかし加害者になってしまう介護職もまた被害者ならば、長寿百寿の何がめでたいのか誰がシアワセなのか。

同じく昨秋、40代の緩和ケアホスピス医とアントニオ猪木氏の「お別れメッセージ動画」が話題になった。共通するのは、避け得ない死に泰然とあるいは雄々しく立ち向かい、周囲の人を想う優しさだったと想う。

かつて筆者ゆかりの会津で白虎隊士らは、今の中高生程度の若齢にも関わらず戦い、立派な辞世の句・歌を遺し自刃した。今の百寿者と同世代、筆者の親族含め戦場に散華した者たちも多くが辞世や遺言を遺したという。死生観を抱き死に立ち向かった人たちの志が、辛うじて我が国にはまだ遺っている。

そしてコロナ収束の中、広島で101歳のママが現役の喫茶店「コロナ」が閉店した、有終の美、見事な退き際と想う。そんな百寿者にこそ末永くお元気で過ごして欲しいと願う。

我が国の老人医療、年金、介護は世代間扶助、子孫世代に負担を先送りする「子孫にツケ払いリボ払い」だ。なのに少子化が止まらず労働人口、払い手が減っている。

超高齢化を支える介護職は既に30万人不足し、さらに不足すると予測されている。夜勤して手取り月20万足らずの薄給、生活できないと忌避されている。一方で持ち家かつ資産が何千万もあっても高齢者医療と介護保険サービスの自己負担は原則一割、他人子孫に面倒みてもらいツケをリボ払いさせて資産温存。若い人は働いても子供育てても搾り取られるだけ、だから結婚も出産育児もできない望まない若い人が増えている。それで百寿がめでたい、はずがない、ただの搾取ではないか。

痛みある老人医療年金改革が言われて久しい。健康保険組合は保険料の4割超を高齢者医療に「貢いでいる」ため財政悪化し次々解散している。

健康保険法は第一条に「疾病、負傷若しくは死亡又は出産に関して保険給付を行い、もって国民の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とする」とうたっている。長寿でも延命でもない「生活の安定」つまりは労働し生活自立できるための「健康を取り戻すため」の健康保険だ。

自立の回復が望めないなら、いたずらに盲目的延命を健康保険で為すことは止めるべき、給付制限すべきだ。金融資産があるなら、介護はそこからも支出させるべきだ。何も考えずに盲目的延命医療と介護で百寿者と予備軍を「増産」し、その結果若い世代が際限ない「年金と老人医療費と介護費の仕送り」で逼塞し結婚も出産も諦めるような世代間搾取は、制度として破綻している、もはや看過し座視すべきではない。

(橋本財団「Opinions」2023年6月20日記事より許可を得て転載します)

【参考文献】