「8月の平和論」の危険性(古森 義久)

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顧問・麗澤大学特別教授 古森 義久

例年の「8月の平和論」の季節も15日の終戦の日で、また幕を閉じた。

「8月の平和論」とは毎年、8月になると、6日の広島での原爆被災、9日の長崎での同様の被災、さらに15日のポツダム宣言受諾による敗戦と、戦争の惨禍とその終結を記念する式典を中心にして、「平和の絶対の大切さ」が繰り返し語られ、叫ばれることを指す。

その基本メッセージは「どんな場合でも平和を守り、戦争は絶対に拒否する」という趣旨である。そんな趣旨は小学生の子供たちまでが語らされている。

戦争の惨禍を想起し、その渦中で命を失った先人の霊を追悼することは、国家として、また国民として欠かせない。だがその際に日本の国のあり方として語られる「平和」や「戦争」についての主張は日本の国の安全保障を麻痺させる危険があるといえる。

私はいまアメリカの首都ワシントンにいて、日本の8月の平和論や戦争否定論について考えている。アメリカでは日本との戦争の終結記念日は公式には9月2日、つまり戦艦ミズーリ号艦上で日本政府の代表が降伏文書にサインした日とされている。だが実際に戦争が終わった日はアメリカ時間では8月14日であり、この日も対日戦争勝利の日として祝われる。

実際の歴史でもアメリカでは1945年8月14日に日本との戦争に完全に勝利し、日本を全面降伏させたとして全国が大祝いとなった。勝者と敗者、日本とは正反対の反応だったのは当然である。

そのアメリカの祝賀では日本との戦争はアメリカの防衛、自由世界への脅威の除去として大歓迎された。自衛のための戦争こそが自由や繁栄、さらに平和をもたらしたという当然の認識である。だからアメリカではすべての戦争を否定するという主張は皆無だといえる。

一方、日本での「8月の平和論」はすべての戦争を否定する。戦争とは一般に主権国家同士の武力の衝突である。日本がもし外国から侵略を受けた場合、どうするのか。「8月の平和論」に従えば、一切、軍事力での抵抗や防衛はしてはならないことになる。つまりは外敵への降伏である。

日本の自衛のための戦いはいまの憲法の自縄自縛のなかでも認められているのだ。だが「8月の平和論」はその自衛の行動さえも戦争の否定として禁じるというのである。

戦争の前段階には武力による威嚇もある。外国による軍事的威嚇はまず具体的な要求を伴う。

日本がもし武力での侵略の脅しを受けた場合、どうするのか。「8月の平和論」では純粋な自衛行動も含めて、いかなる戦争もノーなのだから、威嚇を受けた場合も降伏ということになる。日本国民が独自に営々と築いてきた民主主義の国家、繁栄する社会を外敵に対して、なんの抵抗もせずに譲り渡すこととなる。

通常の国家であれば、外国からの軍事的威嚇を実際の侵略へとつなげないためには、断固たる抑止という態度をとる。相手がもし攻撃をしてくれば、こちらも反撃をして、手痛い損害を与える。その構えが相手に侵略を思い留まらせる。それが抑止の論理であり、現実である。

だがこの論理にも現実にも一切、背を向けているのが日本の「8月の平和論」なのだといえる。だからこの「平和論」は日本の国家安全保障には危険なのだ。

日本の「8月の平和論」はいつも内向きの悔悟にまず彩られる。戦争の惨状への自責や自戒が主体となる。とにかく悪かったのは、わが日本だというのである。

日本人こそがまちがいや罪を犯したからこそ、戦争という災禍をもたらしたという自責が顕著である。その自責はときには自虐にまで走っていく。人間の個人でいえば、全身の力を抜き、目を閉じ、ひたすら自己の内部に向かって自らを責めながら、平和を祈る、というふうだといえよう。そしていかなる武力の行使をも否定する。

だがこの内省に徹する平和の考え方を日本の安全保障の観点からみると、重大な欠落が浮かびあがる。国際的にみても、異端である。

日本の「8月の平和論」は平和の内容を論じず、単に平和を戦争や軍事衝突のない状態としてしかみていない点が欠落であり、異端なのだ。その平和への希求は、戦争のない状態の保持の絶対性を叫ぶだけに終わっている。守るべき平和の内容がまったく語られない点が特徴なのだ。

平和というのは単に軍事衝突がないという状態ではない。あらゆる個人の固有の権利と尊厳に基づく平和こそ正しい平和なのだ。

この言葉はアメリカのオバマ大統領の言明である。2009年12月10日、ノーベル平和賞の受賞の際の演説だった。

平和が単に戦争のない状態を指すならば、「奴隷の平和」もある。国民が外国の支配者の隷属の下にある、あるいは自国でも絶対専制の独裁者の弾圧の下にある。でも平和ではある。「自由なき平和」もありうる。戦争はないが、国民は自由を与えられえていない。国家としての自由もない。「腐敗の平和」ならば、統治の側が徹底して腐敗しているが、平和は保たれている。「不平等の平和」「貧困の平和」といえば、一般国民が経済的にひどく搾取されて、貧しさをきわめるが、戦争はない、ということだろう。

日本の「8月の平和論」では、こうした平和の質は一切、問われない。とにかく戦争さえなければよい、という姿勢なのだ。その背後には軍事力さえ減らせば、戦争はなく、平和が守られるというような情緒的な志向がちらつく。

平和を守るための絶対に確実な方法というのが一つある。それはいかなる相手の武力の威嚇や行使にも、一切、抵抗せず、相手の命令や要求に従うことである。そもそも戦争や軍事力行使はそれ自体が目的ではない。戦争によって自国の領土を守る、あるいは自国領を拡大する、経済利益を増す、政治的な要求を貫く、などなど、達成したい目標があり、その達成を多様な手段で試みて、平和的な方法では不可能と判断されたときに、最後の手段として戦争、つまり軍事力の行使があるのである。

だから攻撃を受ける側は、相手の要求にすべて素直に応じれば、戦争は起きない。服従や被支配となるが、戦争だけはないという意味での「平和」は守られる。

日本の「8月の平和論」はこの範疇の非武装、無抵抗、服従の平和とみなさざるをえない。なぜなら、オバマ大統領のように、あるいは他の諸国のように、平和に一定の条件をつけ、その条件が守られないときは、一時、平和を犠牲にして戦うこともある、という姿勢はまったくないからだ。

オバマ大統領は前記のノーベル賞受賞演説で戦争についても語った。「正義の戦争」という概念だった。

正義の戦争というのは存在する。国家間の紛争が他のあらゆる手段での解決が試みられて成功しない場合、武力で決着するというケースは歴史的にも受け入れられてきた。武力の行使が単に必要というだけでなく、道義的にも正当化されるという実例は多々ある。第二次世界大戦でナチスの第三帝国を(戦争で)打ち破った例ほど、その(戦争の)正当性を立証するケースはあまりない。

これが国際的な現実なのである。どの国家も自国を守るため、あるいは自国の致命的な利益を守るためには、最悪の場合、武力という手段にも頼る、という基本姿勢を揺るがせにしていないのである。それが国家の国民に対する責務とさえみなされているのだ。

古森 義久(Komori  Yoshihisa)
1963年、慶應義塾大学卒業後、毎日新聞入社。1972年から南ベトナムのサイゴン特派員。1975年、サイゴン支局長。1976年、ワシントン特派員。1987年、毎日新聞を退社し、産経新聞に入社。ロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長、ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員などを歴任。現在、JFSS顧問。産経新聞ワシントン駐在客員特派員。麗澤大学特別教授。著書に『新型コロナウイルスが世界を滅ぼす』『米中激突と日本の針路』ほか多数。


編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2023年8月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。