哲学というもの

フランスの哲学者・モンテーニュ(1533年-1592年)の『随想録』に、「哲学する目的は、死に方を学ぶことにある」とあります。哲学する目的などというのは、そう簡単に答えられるものではありませんが、之は余りピンとこない言葉に感じられます。私が一つ挙げるとすれば、自分で徐々に死生観を確立して行くということだろうと思います。

死については例えば、マールンクヤという弟子から「霊魂というのは、死後どうなるのですか。不滅なのですか」と聞かれた釈迦が、「苦悩からの解脱こそが最大の重要課題であるにもかかわらず、そのような戯論(けろん)をしていても仕方がない」と諭しています。あるいは、弟子の子路から「死とはどのようなものかお教え下さい」と尋ねられた孔子が、「未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん…生についてまだ分からないのに、どうして死が分かると言うのだ」と述べています(『論語』)。人間どう深く生きるかが基本で、死のことなど余り考えなくて良い、と私も考えます。

唯、宋の朱新仲が唱え実践した「人生の五計」、「生計…いかに生くべきか/身計…いかに社会に対処していくべきか/家計…いかに家庭を営んでいくべきか/老計…いかに年をとるべきか/死計…いかに死すべきか」、の最後は老計と死計です。「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない」とは曹洞宗の開祖・道元禅師の言葉ですが、人間死すべき存在であり何時死ぬか分からぬが故、生を大事にしなければならず、我々は死の覚悟を以て生ある間今ここに、後世に何を残すかということを真剣に考えて行かねばなりません。

死に向かう人間としてやるべきは、次代への遺産を残すことです。それは例えば、偉人がつくり上げた人物史あるいは偉大な労働を礎とした国家、といった類に限った事柄ではありません。その遺産とは、いつ何時消滅するやも分からぬ物的なものでなく「志念の共有」ということであり、世に何らか意味ある足跡を残して行くということです。自分がしっかりとした人生修養をして行く中で学び得たものを次代に引き継げるようになれば、それだけでも良いでしょう。司馬遼太郎の『峠』という小説の中に、「志ほど、世に溶けやすく壊れやすく砕けやすいものはない」とありますが、だからこそ世のため人のため一度志を定めたならば、それを生涯貫き通すと決死の覚悟をし、永生を遂げるのです。

人間は儚く何時死ぬか分からぬものであり、人生は二度ない、という真理を先ずは肝に銘じることです。そして自分の生まれてきた意義を生ある間にきちっと残して行くべく、我々は死するその時まで自分の生き方を真剣に考え続けねばならず、それが思想を生み哲学を生むわけで、何も「死に方を学ぶこと」ではないでしょう。先述の釈迦であれ孔子であれ、その精神的な力は今尚生き永らえ、後に続く人々に生の指針を与え続けています。それが哲学であり思想であって、世のため人のためのものでなくてはならないと思います。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年8月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。