李登輝から学ぶ、日本人に必要な「自分への自信と信念」

教育の中で大事なこと

筆者は「日本にはアイデンティティを育む教育が必要だ」というタイトルで執筆したのを8月30日付にて掲載してもらった。それに一つ加筆したいことがあって今回また筆を取った。それは自分への自信と信念を持つことが大事だということである。これも筆者が触れた日本の「教育基本法」とその「改正教育法」にも言及されていない。

しかし、聞く耳をもたない個人主義の強い異文化の中で長年生活していると、自分自身への自信そして信念をもたないとその中で埋没させられるようになる可能性があるということである。

自分の意見を主張するにも自信を持ってやらないと自分が常に正しいと思っている相手を説得できない。更にそれが長期の戦いとなると信念を持って取り組むことが必要になって来る。

改正法の前文で言及されている「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」といった博愛的な教えを謳っても、民族闘争などして来た人を相手にした時にはその博愛精神を逆に悪用しようとするかもしれない。その相手の意向も長年の異文化での生活から肌でわかるようになる。その悪用されることを避ける意味においても自分自身への自信があればそれを防ぐこともできる。

そうしている内にそこから逆に信頼関係が生まれる場合もある。ということから大事なのは自分自身の中に不動の一つの軸をもつことである。それが自分への自信と信念である。

李登輝の「台湾の主張」から学ぶ

最近、台湾の元総統李登輝氏が執筆した「台湾の主張」というタイトルの本を再読していた。筆者の手元にあるこの本は1999年の初版のものである。頻繁に商用で帰国していた頃に書店で購入したものである。この本の中で上述した自信や信念について日本人並びに政治、そして政治家に絡ませて書かれているのが読者の参考になるのではないかと思い以下にそれを言及したい。

李登輝台湾元総統 Wikipediaより

李登輝氏が日本の政治家の世襲制について言及している。

日本は急速な円高の中で、自分を見失ってしまったのではないかと思われることが多い。ことに経済問題に関する政策決定の拙さについては、国際的な批判もしかたがないだろう。その最大の原因は、私には現在の日本が、アメリカや台湾と異なり、あまりにも世襲制がひどくなっているからではないかと思う。

この問題は、往々にして日本の社会問題について論じる際に指摘されるのだが、私は、むしろ政治の世界でこそ世襲の弊害が大きいのではないかと見ている。

現在の国会議員のかなりの部分が、二世と三世に占められていることからも明らかだ。

またなぜ日本は停滞しているのかということについて、同氏は

なぜ、このような情けない事態に陥ったのだろうか。第一に考えられるのが、先にも指摘したように、世襲制が蔓延ってしまったためである。日本人にはいまだに優秀で、若い人でも『この人は、政治家になると伸びるのではないか』と思われる人に会うことは少なくない。しかし、その人が本当に政治家になるにはどうすればいいか想像すると、とても政治家になることを勧めるわけにはいかなくなる。

日本で政治家に成ろうと思えば、一番の早道は政治家の子供に生まれるか、政治家の子女と結婚すること、或いは政治家の秘書になって気に入られることだろう。しかし、この道が現在の日本で優れた政治家を生まないことは、もはや証明されたも同様である。現在の政治家のほとんどが、このコースをたどって政治家となり、その結果として現在の停滞を招いているのだ。

第二に、やはり官僚主義が変化への対応を遅らせてしまっている。官僚が強くなったために政治家が自分たちのなすべきことまで官僚に渡してしまった。官僚に任せきりで、個人的にははっきりした政治的信念を持っていない人が多くなった。

第三に、…バブルやその崩壊の中で、それまでの方法が通用しなくなったが、そのため以上に自信喪失することになってしまった。失礼ながら日本人は今、びくびくして生活しているように見える。怯えながら経済活動をしている。

ASEANに関係して同氏は、

これまで日本は多額にのぼる援助を行い、多くの企業を進出させながら、どこか及び腰のところがあって、ASEANの国々の信頼を獲得していない。日本がもう少し政治的にこなれたところを見せない、ASEANの国々も不安なのである。

…こうした真面目さや真剣さによって作り上げられた各部分は優秀でも、部分を組み合わせて全体で実践に移す場合は、また別の要素が要求される。この別の要素とは、日本人が考えているような能力ではない。もっと精神的なもの、いわば信念といったものによって支えられるのである。日本人にはこの信念が希薄なのである。少なくとも現在の日本人には自信が欠落している。その為に自分に対する信頼感が持てず、堂々と実行に移す迫力が感じられないのである。

…政治家の能力がないからではなくて、信念あるいは自分に対する信頼感が欠落しているからなのである。

今の日本の政治家に、欠けていることは何かという問題に繋がるテーマでもある。政治家が能力と利害によって判断する限り、この方向で人間が教育される限り、日本の政治に幅や大局観など生まれるはずはない。

政治家は時として能力や利害を無視できるようにならなければならない。・・・信念や自信を考えられなくなってしまった日本人だからこそ、政治家として優れた人間が出てこなくなったともいえるのである。

李登輝氏の著書の一部内容を上記に紹介したが、長年異文化の中で生活している筆者から見ても、同氏の指摘は的を射ていると思う。上記には加えなかったが、日本政府がことをなす前に米国や中国へ「お伺い立てる」ことについても同氏は苦言を刺している。日本の政治家がやっていることに自信を持っていればそのようなお伺いなど必要ないことである。

このような指摘が正に日本の子供たちの実践教育の中に必要なのである。