真の自分になる

私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は、「幕末佐賀の名君鍋島閑叟(かんそう)の師古賀穀堂」に感心されて、次のように述べておられます――現在でも世界に三十億の人間がおりますが、自分は二人とありません。これが人間存在の冥利で、個性というものであります。そこで俺は何になるのだ、何をもって存するのだというと、これは真の自分になること、自分の信念・学問・信仰に徹することです。これは大きな見識であります。世間では自分を見失ってしまって、他人のまねばかりするものですから、ろくな自己ができません。ここに至って古賀穀堂はやはり偉い。徹底した見識をもった人であると思います。

真の自分になるためには結局のところ、中国古典で言う「自得…じとく:本当の自分、絶対的な自己を掴む」ということが全てではないかと思います。江戸時代の名高い儒学者・佐藤一斎も言うように、「人は須らく、自ら省察すべし。天、何の故に我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむる。我れ既に天物なれば、必ず天役あり。天役供せずんば、天の咎(とがめ)必ず至らん。省察して此に到れば則ち我が身の苟生すべからざるを知る」ものです。

自分は天から如何なる能力が与えられ、如何なる天役(…此の地上におけるミッション)を授かり、如何なる形でその能力を開発して行けば良いのか――天が与えし自分の役目を己の力で一生懸命追求し、その中で自分自身を知って行くのです。自らに与えられた固有の命(めい)を引き出し発揮して行くことが人間としての務めであり、之が東洋哲学の一番の生粋であります。「命を知らざれば以て君子たること無きなり」と孔子が言うように、天が自分に与えた使命の何たるかを知らねば君子たり得ず、それを知るべく自分自身を究尽し、己の使命を知って自分の天賦の才を開発し、自らの運命を切り開くのです。

人間、自分自身が一番よく見えていません。自分が分からなければ、如何に生くべきかも分かるはずがありません。安岡先生も言われるように、君子というのは「『中庸』にある如く、貧賤のときは貧賤に素し、富貴には富貴に素し、夷狄には夷狄の境地に素し、患難に対処してもその境地にあって自得する」ものです。我々は君子を目指し、いつ如何なる境地にあっても、その場に遊離することなく物事に処して行くことが大切です。

私自身この自得につき若い頃から随分考えてきましたが、自分が天職と思える仕事は何かは中々分からぬものです。あの孔子も50歳になって漸く天命を知ったと述懐しています。心奥深く潜む自分自身を知るは極めて難しく、人生で色々な経験を重ね行く中で一つひとつ分かってくるものです。それが人間一人ひとり出生時に天が与えし命に繋がって行き、世のため人のためという志になるわけです。我々は真の自分になり、天命を果たすべく命を使うのです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年8月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。