筋違いの恨み:京都アニメーション放火殺人事件の初公判

京都アニメーション放火殺人事件の公判で検察側が「筋違いの恨みによる復讐」と主張しました。「うたぐり深く、他人のせいにしやすい被告のパーソナリティーが京アニや関係者への怒りを駆り立てるとともに、妄想を生み出し、犯行動機を形成した」ともあります。

煙に包まれる京アニ本社 NHKより

人を信用できない、という妄想は巷にあふれていると思います。日本だけではなく、世界どこでも同じです。それが正面切って議論されるのが政治の場であり、外交でもあります。例えば原発処理水を「核汚染水」と言い続ける中国。岸田首相が中国李強首相との立ち話及び会議での発言でも日本がきちんと処理されていることを主張しているにもかかわらず、「核汚染水」と表現する李強首相は「言わされ感」が強く、そのインプットは習近平氏を頂点とするマインドコントロールであり、聞く耳を持たず、理解を深める努力を放棄しているとしか思えません。

どんな間違ったことでも繰り返し言い続け、他の情報をシャットアウトしてしまえば人はそれを信じるようになります。なぜなら反論が無いからで、自分の頭の中の理解が一つの色に染まるからです。

韓国で学校の先生による大規模なストライキが行われました。参加した先生は数万人にのぼり、学校での業務を放置し、国会前に集まりました。ストのきっかけとなったのは一人の小学校の先生がモンスターペアレントに屈し、自殺したことです。先生方が「こんなことでは安心して教育活動が出来ない」とシュプレヒ コールを上げたものです。

事件は2年目の若い女性教師が担任のクラス起きた児童同士の些細なもめごとに関してクラスの親たちが先生の携帯にクレームの電話を集中砲火させたことで突発的な自殺を図ったものとされます。先生を恨む、祭り上げるという行為ですが、韓国における集団行動は尋常ではない結託力があり、それが不幸な結果に結びついたとみています。これは筋違いの恨みではなく「やりすぎ」ではないか、という意見もあると思います。しかし、人の行動がちょっとしたきっかけで常軌を逸することはしばしばあり、集団になると全く制御が効かない状態になることは時折見かける市民の暴動事件を思い出していただいてもお分かりいただけると思います。

京アニの青葉被告が「当時はこうするしかないと思った」と供述していますが、「当時」という言葉から被告の心理状態が異様に高まり、正常な判断能力を逸脱したことは確かなのでしょう。これを理由に精神鑑定上の無罪を主張する被告弁護側の主張が通れば人間の感情の起伏をどこまで認めるか、という判断につながり、同意できません。裁判における精神鑑定は被告が常時、判断能力を逸失していたことではなく、通常の生活をしていても特定のイシューに強く反応することを精神障害=無罪とすれば世の中の全ての犯罪は無罪になり得ます。正常な人間が興奮状態に陥り「感情の制御の問題」は精神問題とは切り離すべきでしょう。

これに関連し、安倍元首相銃撃事件、岸田首相襲撃事件も同様です。彼ら犯人は全くの平常心を持っているのですが、ある事象にだけ異様に反応し、コントロール不可能になるのです。過剰反応で筋違いな恨みといっても過言ではないと思います。

これらは社会問題になるような重大事件ですが、それ以外にも社会欄にしばしば掲載される家族や親戚同士の争いが高じた殺人事件は勘違い、筋違い、妬み、やっかみなども当然にあったものと思慮します。更には我々日常生活の中にも筋違いな話はごろごろしており、人間関係がそれで不和になることは珍しくないでしょう。

なぜ、こうなるのでしょうか?私が思うのは情報の氾濫により中途半端にしか理解されていない事実関係を受け手が勝手に推測し、想像力を膨らませてしまうことがひとつあるとみています。また、情報開示や説明に臨んでも相手方が一旦思い込むとそれを修正することが非常に困難になるため、何をどう説明しても平行線のままとなるわけです。

中国の水産物の輸禁は当面解決の目途は無いと思います。当面とは数年以上というスパンです。輸禁を解くのは政治的理由がある時にそれを交渉の材料にするだけです。中国は分かっているのです、この処理水海洋放出が重大ではないことを。ただ、それを利用したプロパガンダを作り上げて日本を追い込む、それだけの話です。

そういう意味では住みにくくなった社会とも言えます。あるいは自分の知らないところで妙な恨みを買っていることはあり得るかもしれません。自分は論理的に分かっていても他人にはその論理は通じない、このギャップこそ、現代が抱える人間関係の病ともいえそうです。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年9月7日の記事より転載させていただきました。