人はなぜ「献金」するか

安倍晋三元首相が銃殺されてはや1年2カ月以上が過ぎた。山上徹也容疑者(43)の供述によると、母親が宗教法人「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)の信者であり、高額献金をして家庭を破綻させたとして、容疑者は旧統一教会を恨み、同教会と関係があると判断して安倍元首相を射殺したという。それ以後、多くの日本のメディアは山上容疑者の供述を鵜呑みにして旧統一教会を反社会グループと独断し、バッシングに突き走ってきた。

オーストリアのローマ・カトリック教会のシンボル、シュテファン大聖堂

ところで、人はなぜ献金するのだろうか。「献金」行為は高額であろうが少額であろうが、その行為は本来、非常に宗教的なルーツに基づいている。ドイツの哲学者クリストフ・トゥルケ氏(Christoph Turcke)は独週刊誌シュピーゲルのインタビュー記事(2015年5月16日号)の中で、「お金」の宗教的ルーツを説明していた。

同氏は、「なぜ、人々は金の話となれば冷静に話せなくなるのか。それはお金の誕生には宗教的起源があるからだ」と強調し、その宗教的ルーツについて語っている。

同氏によると、「人類は高き天上にいましたもう存在(神々)に対して罪意識があった(キリスト教では原罪)。そして、天災を恐れてきた。天災を回避するために、神々に対し、罪を償わなければならないと感じ、神々の怒りを鎮めるため最も大切なものを供え物として捧げた。

最初は人間が供え物となった(例・旧約聖書「創世記」のアブラハムのイサク献祭)。それから贖罪用の動物(古代ギリシャ時代は「牛」)を供え物とした(独語の「お金」Geldはラテン語ではPecuniaだが、その語源は「牛」を意味するPecusだ)。その後、金、銀、銅といった貴金属がその贖罪手段として登場した(金は太陽を、銀は月を、銅は愛と美の女神ビーナスを映し出すと信じられていた)。

そして現在、流通している紙幣とコインの「お金」が生まれてきたわけだ。それらに共通している点は、贖罪手段だったということだ。すなわち、私たちが今、利用している「お金」は本来、贖罪手段であり、「献金」とは、贖罪のために供え物を捧げる行為を意味していた」という(「『お金』に潜む宗教性について」2015年5月26日参考)。

キリスト教会を含む全ての宗教団体にとって信者からの「献金」は重要だ。慈善事業から宣教活動まで、信者からの「献金」で運営されているケースが多い。大口の献金をする信者がいれば、教会側はもちろん大歓迎するだろう。

問題は、献金をした信者が後日さまざまな理由からその献金を返してくれと教会側に要求する場合だ。そのようなケースは多くはないが、ある。

例えば、世界キリスト教情報によれば、米ミネアポリスのマーセル・メイジャー氏は1999年、福音教会に13万ドルを献金したが、失業して生活に困った為に、その献金の返却を求めて教会を告訴した。教会側は、「メイジャー氏の献金はその時、自主的に行われたものだ。教会としては同氏の信仰の表れとして受け取った」と説明した。米国の法律専門家は、メイジャー氏のような告訴が勝訴する可能性は皆無ではないが、少ないという。

その背景は、「献金は教会ではなく、神に捧げるもの」という認識が米国では定着しているからだ。一旦、神に捧げた以上、その献金はもはや信者の所有ではなく、神に属する、という認識が一般的だからだ。

もう少し説明すると、献金がその信者の贖罪意識に基づいたものであった場合、問題は少ないが、そうではない場合、献金後問題が生じるケースは十分あり得る。問題は贖罪意識の有無にかかっているわけだ。換言すれば、宗教的ルーツに基づいた献金行為には、「高額献金」、「少額献金」といった金額は問題にならないのだ。

問題となるのは、宗教的ルーツとは無関係の献金行為の場合だ。その場合、贖罪とか神の加護といった世界に無縁の共産党弁護士のビジネスの餌食になるだけだ。日本では共産党系弁護士たちが、統一教会に献金したが、後日、その献金を返してくれと訴えている元信者たちの相談窓口となって、統一教会に返金を求めている。弁護士たちにとってビジネス・チャンスであり、統一教会にダメージを与えることが出来るというわけだ。

キリスト教会にとって「献金」は商品ではない。効果がないから商品の代金を返してほしいといわれても困るわけだ。所有権の問題だ。この世が所有するか、神が所有するかの問題だ。献金は神に所有権を移行させる行為といえる。万の神を信じ、ご利益信仰の場合、効果がなければ、返品を求めたくなるのは理解できるが、キリスト教の場合、一旦献金した場合、それはもはや自分の所有物ではなく、神の所有物だ。もはや発言権はないのだ(「『献金』と神のオーナーシップ」2022年8月12日参考)。

贖罪手段(支払手段)は時代が進むにつれて、より軽く、交換しやすく、人間に負担が少ない方法へと変わっていった。21世紀の今日、デジタル通貨も誕生した。それにつれて、「お金」のルーツ、贖罪という宗教性は希薄化していき、「お金」は単なる購買力を表す手段とみなされてきた。

キリスト教会は、「お前たちは罪人だ。神の前に供え物を捧げるように」と説教してきた。そして、教会の「献金」制度が出来た。ところが、21世紀に生きる私たちは古代人のような罪意識や贖罪感を持ち合わせていない。献金制度の前提であった信者たちの罪意識が乏しくなると、献金は集まらなくなる。贖罪意識の乏しい信者に、強制的に、偽りの贖罪意識を植え付けて献金を集めようとすれば、後日問題が生じるのは当然だろう。

繰り返すが、旧統一教会の献金問題はそれが高額であろうが、少額であろうが、宗教的ルーツ(贖罪)に基づく限り、全く問題はない。高額献金を問題視し、旧統一教会を糾弾する共産党系弁護士たちは自らが宗教の世界に疎いことを証明しているだけだ。

最後に、贖罪意識があっても「献金」する先がない社会を考えてみてほしい。無神論的唯物論を掲げる共産主義国のような社会だ。その世界に生きる人々は自身の罪悪感、贖罪感をどうようにして止揚できるだろうか。贖罪と献金の受け皿(宗教)のない社会こそ最も恐ろしい世界ではないか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年9月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。