鎖国しなければオホーツク海沿岸は日本領だった:『江戸幕府の北方防衛』

omersukrugoksu/iStock

このところ北海道の歴史に注目が集まっている。どうしたわけか、保守系までが一緒になってアイヌ先住民説を無批判に受け入れ、北海道開拓を負の歴史と捉えかねない勢いだ。

オーストラリア人がにわかにアポリジニーへの恥知らずな虐待を反省してるのに触発されたらしい。

私は、新大陸の黒人奴隷と南アフリカのアパルトヘイトと並んで、オーストラリアの白豪主義は世界史上の三大人種差別で、オーストラリアがいちばん反省が遅れていると昭和の頃から主張し続けてきたのでこの問題はよく知っているが、北海道のアイヌ問題とは何も似ていない。

もちろん、全く何も反省しなくて良いわけでないのだが、しっかりと結論ありきでない検証が必要だし、どうもアイヌ先住民論を唱えている人たちの歴史認識が正しいとも限らず、また、法律の枠組みにも疑問はある。

ところが、そのことを議論することすら封じられそうな気配で、困ったものだ。杉田水脈代議士が民間人時代に、国連に乗り込んで蛮勇をふるって慰安婦問題やこうした流れに抵抗したのは、まことに勇気ある行動だったが、SNSでの報告の際、少しノリの良すぎる表現をつかったとして「政治家を辞めろ」とかいう向きもあるが、全体の構図をしっかり見て欲しいものだ。

それはともかくとして、「江戸幕府の北方防衛 ─いかにして武士は「日本の領土」を守ってきたのか」という本を中村恵子さんという方が書かれて話題になっている。ここの主題になっている、北方防衛のために松前藩や幕府の武士たちがたいへんな苦労をされたことは事実であって、その志を褒めることはいいことだ。

ただそもそも、松前藩はカムチャッカやサハリンまで領土だと認識していた。また、「平家物語」には、平宗盛が蝦夷や千島に流されても、生きていたいといったことが書かれているとおり、平安時代の人々も日本の領土として認識していた。

したがって、徳川幕府が適切に動いていたら、オホーツク海沿岸はすべて日本に帰属させるのはさほど、難しいことでなかった。ところが、松前氏にアイヌの有力者を介した間接支配させることで満足してしまった。

ましてや鎖国までしていたから、ロシアがオホーツク市を1643年にコサックの越冬地とし、1649年には砦を建設したのにもかかわらず、ロシアという国の存在すら知らないまま、無為無策で放置したのである。

ところが、戦争の捕虜としてカムチャッカに抑留されていたハンガリー人ベニョフスキーという人が1771年に脱出に成功して阿波と奄美に立ち寄り、カムチャッカや千島へのロシアの進出ぶりを報せてくれたのである。実に一世紀以上も何も知らなかったのである。

これに驚いて書かれたのが、工藤兵助の「赤蝦夷風説記」や林子平の「海国兵談」である。

これを受けて田沼意次は蝦夷地開発に取り組み、場合によっては交易もという構えであった。ところが、政権を受け継いだ松平定信は、とんでもない後ろ向きの政治家であった。

蝦夷地も下手に農業開発などして住み易くしたらロシアに狙われるだけとかいって、開発するのをやめたものの、最上徳内らを千島へ調査派遣したりはした。

このころ、難破してロシアで助けられ、エカテリーナ2世とも謁見したという伊勢の大黒屋光太夫を連れて、ラクスマンという船長が、1792年に根室に来た。漂流民を送り届け、丁重に通商を提案したのと、江戸湾に来てほしくないので、長崎でなら入港許可を出すといったが、長い交渉に疲れて、そのまま帰国してしまった。

このあとの幕府の政策は混迷を極めた。1798年には「大日本恵登呂府」の碑を択捉島で近藤重蔵に建てさせた。翌年には函館から根室までの太平洋側を占める東蝦夷を松前藩から取り上げ、直轄領とした。また、伊能忠敬は蝦夷地を測量して地図を作った。

ところが、1801年は、新規の外国貿易は行わないという方針を決めた。ラクスマンに与えられた入港証を持ったレザノフが1804年に長崎に現れたが、「やむを得ぬ事情で付き合っている四国以外とは交易を行うことを論外というのが祖法だ」と勇ましく返答した。

1806年には薪水給与令(文化の撫恤令)を出したかと思えば、1807年にはロシア船打ち払い令を出した。また、松前藩を福島県に移し、蝦夷地全土の直轄領化を出した。1809年には間宮林蔵が樺太で間宮海峡を発見した。

また、国後島を舞台に1811年にはゴローニン、翌年には逆に高田屋嘉がそれぞれ捕らえられる事件があった。ところが、ナポレオン戦争でロシアがそれどころではなくなったので、1821年には松前氏の蝦夷地復帰を認め、それから色々とあり明治の初年にサハリンとカムチャッカはロシアにくれてやって、資源のない千島だけで満足せざるをえなかったのである。

なにより悔やまれるのは、天下統一の後、早い時期に蝦夷地の開発に本腰を入れなかったことである。稲作や日本的な生活スタイルにこだわる限りは蝦夷地は住みにくい土地である。

そこで、もし鎖国などせずに大陸や西洋、あるいは北米の寒冷地をもっと日本人が旅行でもしていたら、寒冷地での生活や食料生産の方法を学び、アメリカ人の指導で北海道開拓をしたようなことが300年近く前倒しで蝦夷地でできたはずだし、さらに樺太などにも進めたはずである。返す返す、鎖国という愚策が悔やまれる。

ところが、著者の中村恵子さんは、大きな歴史の中の大失敗からは目を背けて、鎖国まで褒めているのである。

中村さんが幕府や松前藩の末端の役人などが、局地的に頑張ったことを評価されていることは間違いではないが、それは大失敗のあとの小さな頑張りに過ぎないのである。まして、そのことで幕府や松前藩、なかんずく幕府の鎖国や北方政策を称賛するのはいかがなものかと思う。

同じ時代に清国はいち早く手を打ち、康熙帝がネルチンスク条約で外興安嶺の向こうにロシア人を追い返したのである。

康煕帝は南方での三藩の乱を鎮めると、1685年にロシアが建設していたアルバシンの城塞を攻撃し、3年間の戦闘ののち、康煕帝はピョートル大帝に親書を送り国境協定を提案。1689年、ネルチンスク条約に調印した。

康煕帝はイエズス会の宣教師を使い、近代的な条約を結んだのである。外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(黒竜江上流)を結ぶ線を国境とし、ロシアはアルバジン城を放棄し、ネルチンスクにおいて通商貿易を行うことが決められた。極めて深刻に有利な内容だったので、ロシアはオホーツク海で日本が鎖国で眠っている間にオホーツク海の沿岸の大半を手中にしたのである。

清国はアヘン戦争までは素晴らしい政治をし、経済は大発展、人口は3倍、災害も封じ込めた。対して日本は人口停滞、餓死だらけだった。

たまたま、この春に中村さんと懇談する機会があったが、そういう世界史的な動きを説明させていただいて、それなりにご理解頂いたが、それでも鎖国は素晴らしい政策だという点については、意見をその場では変えてもらえなかった。

幕末の条約交渉でも、幕府の外国奉行だった岩瀬忠震(伊達政宗の男系子孫)が、国際法も勉強せずに交渉に臨み、ハリスに教えを請いながら交渉するというお粗末な状況だったが、それを批判せずに、時折鋭い質問をしたというだけで、岩瀬は立派だったと褒める輩がいる。

鋭いと言っても、治外法権や関税自主権についても質問してないことを考えると、何も鋭いわけでないが、付け焼き刃にしては・・・と言うだけだ。

日本人は、現場での小さな頑張りに気を取られて、大きな図式での失敗を許してしまうからダメなのだ。