学校に行きたくない、会社に行きたくない…:学ぶ機会を奪う閉じた社会

ネット社会の功罪はいろいろ議論されていますが、個人的に思うのはSNSのメッセージは非常に短い表現の中に全てを凝縮するため、表現がより断定的になり、時として厳しい表現も出てきます。Emailの場合には文章がやや長いこともあり、表現が湾曲な言い回しも可能でした。それでもEmailでのやりとりが進んでいた頃、それまでのFace-to-Faceの時代とは違って「ずいぶん紋切り口調だよね」といったものです。

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SNSもEmailも共通するのは一方的な通告、通知、報告、結論の伝達であってネゴシエーションとか妥協、折衷、考慮、配慮といったことが少ない訳です。例えば昔、商店街で肉や野菜を買っていた時は金額の端数をおまけしてくれることもありました。今はスーパーでも支払いは機械相手、ラーメン屋も自販機で食券ですので1円単位まできっちりで、かつての「おまけ」という発想がない訳です。

これは普段の我々の生活においても同じです。昔は人と会い、ワイガヤを含め、多面的に会話が進行していたことも多かったのですが、今はせいぜいZoomミーティングで顔は見えるけれど会話は一人の人が喋れば他の人は黙っていなくてはいけない訳でディベートはしにくい環境にあります。

これは日々の生活に於いて人との交渉がより淡泊になり、デジタル的判断化、つまり0か1かと同じでYESかNOかという二者択一的になったようにも感じます。最近、皆さんの会社の電話、鳴りますか?私の会社にはセールスの電話は日に数回かかってきますが、会社の用件としてかかってくる電話は2-3本あるかないか、です。電話しなくなったのは電話をするのに電話アポが必要だったりするからです。突然電話しても相手が取ってくれないことが大半。つまり、「しゃべってなんぼ」という社会からずいぶん後退してきているのです。

学校に行きたくない、会社に行きたくない理由はいじめやストレスとされます。小学生の不登校は10年間で5倍、中学生が2倍(NHK調べ)とされます。しかし、小学生でいじめという意味が私には素直に理解できないのです。私だって小学生の時、友達と喧嘩は時々したし、取っ組み合いもしました。血が出るぐらいは普通でした。けれどその後、先生が仲裁に入り、喧嘩した双方がペナルティで廊下に立たされてそれでおしまい。喧嘩した相手ともケロッとして翌日には普通に遊んでいる、そんな感じでした。

ところが閉じた社会になるとそう簡単に行かないのです。理由は多々あると思います。幼少期からの子供の経験値不足で子供の行動が一方通行になりやすいことはあるでしょう。また、親が学校や先生をつるし上げることが横行し、先生の厳しい教育がやりにくくなったこともあるでしょう。「うちの子になんていうことをしてくれたの!」です。モンスターペアレンツではなく、普通の親が体罰、喧嘩、生徒とのトラブルなどについて異様に繊細で介入するのです。子供を守らなくちゃ、と。

ところが子供からすると幼少期の経験値の積み上げ、あるいは友達と絶交、喧嘩、修復、仲直りというプロセスを学ぶ機会だったのに自律的に得ることがないまま、大人になるのです。

そうなると自己修復能力が欠如しているので、ちょっとしたことで「ハラスメント!」になるし、それが認められないとみじめになり「会社に行きたくない!」になります。

かつてのストレスは仕事が主な原因とされました。今は仕事の負担がかかり過ぎるというよりも同僚や会社の仲間との関係が維持できないことが問題の根源ではないか見ています。子供も社会人も監理され過ぎで狭い許容範囲に収まることを強要されているように見えます。私も若い方との接点が公私共に多いのですが、調子が良い時はどんどん突っ走るけれど、躓くとドツボにはまって抜けられないという方は頻繁にお見掛けします。

一人っ子社会が浸透し、親が度を越えて子供を大事にするあまり子供が本来育成すべき経験値を得ていない人が成人しています。それが様々な社会的問題、自殺や殺人、大学体育会系の問題、更には各種犯罪の背景に潜んでいるのではないかと思っています。

子供ゆえにBe Wildな育て方でよいと思います。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年10月20日の記事より転載させていただきました。