揺れる「イスラエルの安全神話」

作家イザヤ・ベンダサンはそのベストセラー「日本人とユダヤ人」の中で、「日本は水と安全はタダだと思っている」と書いていた。世界の覇権を狙い、台湾の武力統合を伺う中国共産党政権と、核兵器の増強に乗り出す北朝鮮を隣国とする現在、水と安全はタダと考える日本人は流石に少なくなってきているのではないか。

声明を発表するネタニヤフ首相、ガラント国防相(左)、イスラエル国防軍参謀長ハレヴィ中将(2023年10月23日、イスラエル首相府公式サイトから)

パレスチナ自治区ガザを実効支配しているイスラム過激派テロ組織「ハマス」が今月7日、境界網を破りイスラエル領に入り、周辺で開催されていた音楽祭のゲストたちを襲撃し、キブツ(集団農場)に入り、老人、女性、子供たちを次々と射殺していったテロ事件は、イスラエル国民に大きな傷跡を残した。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件に比する声すら聞こえる。

1人のイスラエル人男性は、「わが国は安全であり、政府は国民を守ってくれると考えていたが、その確信が地に落ちてしまった」と嘆く。世界各地でユダヤ人ゆえに迫害されてきた経験を有するイスラエル人は1948年、パレスチナに初めて国家を建設した。そして世界から多くのユダヤ人がイスラエルに移住してきた。「自分の国ではもはや迫害されることがないだろう」という思いがあったからだ。ディアスポラ(離散)時代を終え、定着の時代を迎えたわけだ。

それから75年後、絶対に安全と思ってきた国でイスラム過激派テロ組織が侵入し、1300人以上のユダヤ人を射殺したのだ。ホロコース(ユダヤ人虐殺)以来、最大の犠牲者が出たことで、「安全の神話」は崩れ落ちてしまった。「水と安全はタダ」と考えてきた日本人にとって、イスラエル国民のショックがどれほど大きいかを理解するのは容易ではないかもしれない。

ハマスのテロ攻撃を受け、イスラエル軍は報復攻撃を開始、ガザ地区に空爆を繰り返し、ハマスの軍事的拠点を破壊している。ただ、空爆で多くのパレスチナ人も犠牲となることは避けられない。ガザ地区の病院が爆発され、多くの患者、女性、子供たちが死んだことが報じられると、アラブ・イスラム国家で反ユダヤ主義的言動が世界各地で発生、ベルリンではシナゴークに放火され、ウィーンでは21日未明、イスラエル文化協会に掲げられていたイスラエル国旗が引き落とされるなどの事件が起きている。

欧州連合(EU)最大のイスラム教徒の人口(約570万人)を持つフランスではイスラム派過激テロを恐れ、イスラエルに移住するユダヤ人が出てきているが、そのユダヤ人の祖国イスラエルがハマスに侵略され、多数のユダヤ人が殺されたのだ。反ユダヤ主義が席巻する欧州でユダヤ人は安心して住むことができないばかりか、イスラエルに移住もできなくなってきた。ユダヤ人にとって安全な国がなくなったのだ。

ロシア軍が2022年2月24日、ウクライナに侵攻して始まったウクライナ戦争は、世界全土で「安全」が大きな政治テーマとなり、欧州ではドイツが昨年6月、国内総生産(GDP)比1%台だった国防費を2%に引き上げる方針を決めている。スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると、「核兵器の総数は今後10年間で増加すると予想される」と報告している。安全はタダではないわけだ。

日本の岸田政権は台湾危機、北朝鮮の暴発を警戒し、米国と軍事協力を強化し、2023年度予算の防衛費は前年度比で1.3倍と大幅に増額したと聞く。日本でも「水と安全はもはやタダ」ではなくなってきている。

イスラエルの問題に戻る。周辺をアラブ・イスラム国に取り巻かれているイスラエルは正式には公表していないが、核兵器を持つ核保有国だ。核の抑止力で隣国の軍事的脅威に対抗してきた。だから、宿敵のシリアやイランが核兵器を製造しようとする兆しが見られると、2007年9月、イスラエルはシリア北東部の核関連施設(ダイール・アルゾル施設)を爆破した。

イランでも過去、モサドがイランの核開発計画に関わる核物理学者を暗殺してきた。イスラエルの自国の安全を脅かす国や勢力に対する強硬姿勢は時には国際社会の批判にさらされてきたが、同国はその圧力に屈することがなかった。同じことが、ハマスの奇襲テロに対するイスラエルの報復攻撃でもいえるだろう(「イスラエルのイラン核施設爆破計画」2021年10月23日参考)。

安全はイスラエルのアイデンティティに深く刻み込まれている。ハマスのテロ奇襲でイスラエルは自国の「安全神話」を失う一方、隣国のアラブ・イスラム国家では、「イスラエルは無敵ではない」、「イスラエルは怖くない」といった声が聞こえ出しているのだ。

「安全が如何に重要か」をどの国や民族より学んできたイスラエル国民は建国以来初めて、国の土台が揺れ出してきていることを感じているのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年10月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。