不死は人類を幸福にするか?:「生」とは脳である

突然、哲学的なテーマで申し訳ないです。2〜3か月前に脳のデータを移植することで自分の親と肉体の死後もやり取りできる技術の研究が進んでいるという話をちらっと振りました。私の知り合いがかつてクローン人間を開発していて、3〜4年前にその責任者の一人が熱く私に語ってくれました。

当時はその内容に疑心暗鬼というか、そんな時代がやってくるのか、ぐらいの思いでした。その会社は私の知り合いの弟さんが引き続き研究を進めており、クローン人間の研究ではたしか日本国内では最先端を行っているかと思います。

たまたま日経に「『老いない』『死なない』は幸福か 哲学者の答え テクノ新世インタビュー 米エール大学のシェリー・ケーガン教授」という記事があり、大変興味深く拝読いたしました。


「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 シェリー・ケーガン

記事の中に「生」とは何か、という設問があり、科学者や専門家は肉体、人格、魂などいろいろな意見があり、このケーガン教授は脳である、と考えているそうです。では皆さんはどう思われますか?

独特のスタイルで講義をするシェリー・ケーガン教授 イエール大学HPより

私はこの設問は超難解、永遠のテーマになると思います。個人の価値観にも依存するでしょう。ケーガン教授が脳と答えた理由に手術で他人の臓器を移植してもそれが個人のアイデンティティに変化はないだろうと。確かにそうです。私の知り合いが先週、人工骨盤を入れました。今のところ、彼のSNSからは人格が変わったと思われる発信はなく、個の尊厳に影響するか、といえば100%なさそうです。

脳は人間を支配するように見えます。とは言えども脳は「発信」ばかりでなく、人間の経歴や外観、人的関係、運や宿命、現時点での生存意義といった要素を「受信」し、それを受けての発信のはずです。私は脳だけが生を支配することはないと考えます。

例えば美貌故にオーディションで合格し、スターダムを驀進するというケースはあるでしょう。私が高校受験の時、堀越学園に行きたいと思ったことがあるのは「自分もテレビに出られるかも」と思ったからですが、容姿も身長もそぐわなかったわけで、スターダムを手に入れることはよほどの偶然がない限り起きないと脳が当時、判断してくれたわけです。

松本清張の「砂の器」はハンセン病という宿命を背負った親子の話です。今、「生」を授かっている私たちの脳は過去という積み重ねに基づき今を作り出したと考えるわけで、先ほどの「生」とは何か、という質問に対し、肉体も人格も魂も脳も全て正しい答えだと思うのです。つまり、断定的な答えはない、と考えます。

では日経の記事にある様々な研究、例えば、抗老化技術(=iPS細胞などを使い老化を遅延させること)、マインドアップロード(=コンピューターを介して生き続けること)、バーチャル故人(=故人の生前の音声をAIが分析し、偽本人化し再生すること)、冷凍保存(=死人の蘇生)、クローン(=同じ人間の複製)は人間や家族を幸せにするのでしょうか?

個人的にはNOだと考えています。もちろん、これらの例が自分の周りや社会で普及したわけでもなく、その社会的影響を想像できない故に否定的になる部分はあります。が、私のアプローチは「栄枯盛衰」と高齢者の子供返り(幼児化)を見ています。つまり、人間が一人で活動できる力や活力を人間の一生でグラフ化するのです。縦軸に活力や活動能力、横軸に年齢をとったグラフを作れば通常は山のような線を描くはずです。

特に認知症になった高齢者の子供返りはよく知られた事実ですが、通常の高齢者でも自分でいろいろできなくなり、判断も鈍るケースが多い点で人間の一生はある程度一つのサイクルに収まるのだと考えています。栄枯盛衰もそうで、稀に70歳、80歳になってから世間に注目される遅咲き開花型の方もいらっしゃいますが、一般的には40歳前後が人間の華だろうと考えています(ノーベル賞などの授賞者も40歳前後の活躍が20年後ぐらいに認められると考えています)。

とすれば、既に一定年齢に達した方のクローン、バーチャル故人、マインドアップロードなどはAIなり技術が引き継いだ時点で当人は既にマチュア(成熟)期から老齢期であり、その時点での技術による引継ぎが果たしてどれだけの価値を見出すのか、という点で私には解せないのであります。

言い換えると人間とは死ぬことに意義があるとも考えています。有名人が亡くなると「惜しい人を亡くした」というコメントが並びます。「あなたはまだ死ぬべきではなかった」とは特別な理由がない限り言わないでしょう。「惜しい」という言葉には2つ意味があり、「失うことが耐えがたい」と「残念だ」という意味があります。高齢者の葬儀における「惜しい」は後者が主だと思います。つまり人間は亡くなることを前提にしているからこそ、今を活力をもって生きるのだという逆転の発想に繋がるわけです。

もしも私があと100年生きれるぞ、と言われた時、相当迷うと思います。「肉体は老いているのか、健康なのか?」「自分の周りに150歳の友人がいるのか?」「働いているのか、毎日ぼーっとしているのか?」「生殖能力は維持できるのか、それともその能力がなくなってから更に100年も生きれば人類のバランスは恐ろしいほどに崩れやしないか?」などなど考えれば考えるほど恐ろしくなるのです。

不死は人類を幸福にするか、といえば健康的で与えられた枠組みの中で最大限を目指す長生きは美しいと思いますが、人工的で自分の魂でコントロールできない「似非ひろ」は違うのではないか、と考えています。

では今日はこのぐらいで。

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編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年10月29日の記事より転載させていただきました。