有益なエビデンスの扱い方とはどういうものであるべきか。
朝日新聞記事で「エビデンスで殴られる・分断の道具に使われる」
「エビデンス」がないと駄目ですか? 数値がすくい取れない真理とは
2023年10月31日、朝日新聞記事で「エビデンスで殴られる・分断の道具に使われる」とする内容の記事が出されて炎上しています。
本記事の内容の構成は、大阪大学教授の村上靖彦氏にインタビューしてその回答・発言を掲載するというものであり、彼の著作である【客観性の落とし穴】において示されている見解がベースにあります。
そのため、本稿では村上靖彦氏の主張を対象に論じます。
くだらない言説にはキリがないので、以下の内、2.以外は無視します。
- 朝日新聞に対する批判
- 村上靖彦氏の主張に対する批判
- 村上氏のX(旧Twitter)上での反応に対する批判
- 聞き手の記者やX上の朝日新聞記者に対する批判
- 元記事の有識者コメント群に対する批判
- X上の、村上氏擁護勢に対する批判
村上靖彦の「客観性の落とし穴」でのエビデンスと個人体験と理念
結論から言うと、村上靖彦教授の主張に対する私の評価は以下になります。
- 総論としては正当なことを言っている
- しかし、各論になると不当な主張をしている
- 「エビデンスの扱い方への注意喚起」として不適切な主張
村上氏は、朝日新聞記事でも書いているように、真理には自然科学や社会科学の文脈から、データで導き出せる客観的な妥当性・一人ひとりの経験の中にある真実・人権のような理念の3つがある、という見解を持っています。
その3つで収まるのかはともかく、この総論には私も否定するものはありません。
エビデンスの意味・定義とは?語源では証拠・証言も・和製英語
各論の問題に行く前に「エビデンス」の意味・定義を確認します。
いわゆる「エビデンス」は、和製英語です。
俗に言われている「エビデンス」は、多数のケース(事象・人など)を観察・分析して一定の普遍性があると導かれるものが対象です。学術論文において統計的有意差があるとされるようなもの、科学的エビデンスと呼ばれているものがそれです。
村上氏も、そのような意味で「エビデンス」という語を用いているのが朝日新聞記事や著書でわかります。
他方で、語源となる英語の”evidence“には、証拠・証言といったように、主張の根拠を構成する資料のような意味が第一義的です。
つまり、たった一人が体験したものに関する証言でも、evidenceとして扱われます。
が、ここではそういう用語法ではない、ということを断っておきます。
個体差によって科学的エビデンスとは異なる結果が起こりうる経験則
「エビデンスに拘って個人の経験や理念を疎かにするな」
村上氏の総論としての主張はこのようなものであり、私もまったく賛成です。
なぜなら、個体差によって科学的エビデンスとは異なる結果が起こりうるというのは経験則として知っているからです。
例えば新型コロナウイルスのワクチン接種後の体調。
私は毎回接種直後に頭痛と視界の微妙な変化、細かい筋肉の誤作動を感知します。
これまでに5回接種しましたが、2回目のモデルナと5回目のファイザーの接種後に心臓への負担を感じました。1週間くらい胸が重く動悸がちになり、運動すると酸素不足・息切れよりも心臓の鼓動の強さによって動作を停止させなければならなくなりました。
それでも、病院で心電図や心エコー等の検査をしても「異常なし」です。
例えば、カフェインの摂取と体調の変化。
感受性は飲む量が多くなるほど変化し、酷い時期にはカフェイン入りのガムを噛んだだけで頭痛、アレルギー症状etc…など様々な身体状況になりました。
が、当然ですが、カフェインの過剰摂取と呼ばれる量は、それよりも遥かに多いです。
現在ではそんなことはありません。
他、外国人でワカメの消化酵素が無かったり、ホエイプロテインでWPIじゃないとお腹を下すとか、人の体質・反応は異なるし、同じ人間でも感受性が変わり得る。
このように、(特定の)科学的エビデンスだけで物事を語り、即座に個人に対して当てはめるという行為は、的外れであるという場合があるということです。
「外れ値」除外の研究論文・トップレベルのトレーニングへの不適合
次に、科学的エビデンスは、しばしば限定された条件・集団の下で実施された研究や、異常値を出した被験者の結果を「外れ値」として除外した上で他のデータを分析した結果として論じられることがあります。
参考:https://www.mbsj.jp/admins/ethics_and_edu/PNE/4_QandA.pdf
参考:https://www.jstage.jst.go.jp/article/ningendock/33/4/33_557/_pdf
また、科学的エビデンスとされている研究は安全を確保した状況でなされるものも多く、トップレベルのトレーニングの世界においては意味のない場合もあります。
こういう話をすると勘違いする人が出てきますが、科学的エビデンスがある話について「それは気に入らないから自分は対象外に違いない」などと勝手に思って無視するのは違います。ワクチン陰謀論などはその一種でしょう。
エビデンスが無い中で意思決定をしなければならない未知の状況
そして、未知の事態への対処や新規事業など、エビデンスが無い中で意思決定をしなければならない状況があります。
このようなシーンで「エビデンスが揃ってから」というのは「手遅れ」になるので、エビデンスを執拗に求めるだけの行為は単なる妨害行為になります。
なお、「予防原則」によって、生命身体への悪影響が懸念されている場合には安全側に寄った判断をデフォルトにする、という考え方がありますが、そもそも予防原則の意味を一般的なものと異なり過剰に見積もる用語法もある上に、予防原則を適用すべきではない場面でも強要させる向きがあるので注意です。
村上靖彦のエビデンス軽視の姿勢:エビデンス批判になっていない
さて、村上氏は、前項までのような考慮を入れたエビデンス批判をしていません。
各論の論じ方を見れば単なる「エビデンス軽視」であり、エビデンス批判にすらなっていないといえます。
具体的には朝日新聞記事で以下のように言っている部分です。
エビデンスや客観性は、分断の道具として使われてきた気がするのです。
――「分断」ですか。
先日、福島に行ったのですが、住民の方と原発処理水の話題になりました
~省略~
「エビデンスがあるから処理水は安心だ」と言われても、健康に関わる心配は絶えないでしょう。
ある人は「エビデンスに殴られているような感じがする」と言っていました。政治や大企業はエビデンスを振りかざし、彼らの恐怖を無視している。不安の声をふさいで、一人ひとりを無力化しているのではないかと思います
放射線に対する感受性が一般人よりも著しく高い人間が居たとして、ALPS処理水は飲料水ではありません。また、海洋放出されて希釈され、海域の魚等に蓄積もしませんし、漁獲された魚は世界で最も厳しい基準のもと検査され、店頭に並ぶ魚の放射性物質の量はなんら健康に影響をあたえないことになる、ということが明らかです。
普段我々が食べる魚にも含まれる放射性物質をそんなに心配するならば、日常生活は送れません。
「未知の核物質」烏賀陽氏「自分の発言ではない・切り取り・ウソ・悪質デマ」福島第一原発ALPS処理水海洋放出
観測され数値化された科学的な安全性と常識的な将来予測による安全性がある中で、それでも不安を感じる個人が居ること自体は仕方がないですが、その不安に社会がいちいち寄り添うことは、当該個人も含めた大多数の人間社会の害となる。
歴史的現実は、エビデンスによって論じる者よりも、不安が分断の道具として使われてきたのであり、それは個々人の生命・身体の健康を奪ってきました。以下の記事で非常に整理されています。
処理水問題の経験から社会に組み込むべき「風評加害」への免疫とリテラシー
高橋純子「エビデンス?ねーよそんなもん」と同じ態度
「エビデンス?ねーよそんなもん」
日刊ゲンダイが朝日新聞の高橋純子編集委員にインタビューした記事が発端となって広まりましたが、元ネタは彼女の著作である【仕方ない帝国/河出書房新社】の記述であり、彼女の中のある気持ちが出てくる根拠となるエビデンスは無い、という文脈でした。なので、朝日新聞がエビデンスなく報道をするという意味ではありません。
が、ゲンダイの記事では安倍政権に対する彼女の得体のしれない否定的な感情を書かなければならないという欲求が吐露されており、結局は”エビデンスが無い中でお気持ちを書いていた”ことになります。
高橋氏はその動機は「権力に対峙」するためと言っており、実はこの姿勢は村上靖彦氏も同様です。
彼の著作では「政府の政策によって零れ落ちる個人」の視点が提供されていますが、個人の経験や理念よりもエビデンスを重視すべき場面でも個人の「語り部」的役割を重視し、その基準すら示さず曖昧のままです。
制度を整備して多数の人間を守る社会を作る思考と個人の視点の思考。
本来はそれらを止揚させるのが思想なのに、個人の視点のみを強調していることには違和感しかありませんでした。
私が「総論としては正当なことを言っているが各論は不当な主張である」と評しているのはこうしたことからです。
本稿ではそういう意味のない言説を取り上げるだけでとどまるのではなく、実際に有益な考え方として何があるのかを示しました。本件を受けて物事を先に進めるか否かは我々次第です。
編集部より:この記事は、Nathan(ねーさん)氏のブログ「事実を整える」 2023年11月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「事実を整える」をご覧ください。