コロナワクチンと有害事象の関連性を否定することは悪魔の証明

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以前に「コロナワクチンにおいての流産の安全性立証は悪魔の証明」という論考を発表しました。突き詰めて考えてみますと、実は「コロナワクチンと有害事象の関連性を否定すること自体が悪魔の証明」なのです。一見して「とんでも理論」のように見えますが、正しい理論です。順を追って説明してみたいと思います。

今回の論考は特に目新しい話ではなく、以前にNatureで指摘された有名な話です。未だに研究者でも誤解している人がいます。

ポイント部分を引用しておきます。

「統計的有意差がある=薬効がある」なら「統計的有意差がない=薬効がない」と考えてしまいそうだが、声明ではこのように有意差がない場合、「“差がない”あるいは“関係がない”といった結論をしてはいけない」としている。

「有意差がない」を「関連性がない」と解釈してはいけないということですから、統計解析では関連性がないことを証明することは不可能、つまり悪魔の証明ということになります。

もう少し深掘りしてみます。

仮説検定の原理は背理法です。背理法では、仮説を「aaaはbbbでない」のように証明したいことを否定する仮説にします。そしてその仮説を用いて何らかの矛盾を導くことができた場合(p値が0.05未満)、その仮説は間違っているという結論になります。つまり、「aaaはbbbである」ということになります。

問題は何も矛盾を示すことができなかった場合(p値が0.05以上)です。この場合は何も証明できていません。したがって、「aaaはbbbでない」という結論にはなりません。

具体的な例をあげてみます。

コホート研究で、帰無仮説を「ある有害事象のワクチン接種群の発生率と未接種群のそれとの差はない」とします。解析の結果p値が0.05以上となったとします。

この場合考えられるのは次の2つです。

  1. 因果関係がないためp値が0.05以上となった。
  2. 因果関係はあるが有害事象の発生率が低いためにp値が0.05以上となった。

統計解析では、p値が0.05以上となった原因がAなのかBなのかを見極めることはできません。したがって、「関連性はなかった」という結論にはなりません。この場合は、「関連性は不明」または「関連性があることを示すことができなかった」という表現が適切です。

有意差がなかった解析結果を論文として公表することに意義はあるのか?

私は意義があると考えます。有意差がなかったとする複数の論文が公表されれば、関連性がないことを立証できていなくても、「安全性に重大な問題はおそらく無いだろう」というコンセンサスは得られます。また、因果関係があったとしても発生率が低ければ「当面の重大な脅威ではない」とは言えます。

ただし、以前に指摘したように、1,000~10,000件/100万人接種という非常に高い発生率でも「有意差なし」となってしまう流産の場合は、意義はありません。一定の発生率以上ならば必ず有意差が認められるわけではありません。その有害事象の本来の発生率の高低により有意差が認められるかどうかが大きく左右されることに注意しておくことが必要です。

視点を変えますと、副反応の救済という観点では別な問題が浮上します。発生率が低ければ世の中全体にとっては重大な脅威ではありませんが、副反応が生じた本人にとっては重大な脅威です。発生率が低かったから、「なかったことにしてしまう」ことは許されることではありません。

最後にもう一つ指摘しておきたい問題があります。

ある統計手法により有意差を示すことができなかった場合、関連性があるかどうかは不明です。ただこの場合、別の統計手法を使用すれば有意差を示せる可能性は残されています。具体的には、コホート研究で有意差がなかった場合でも、SCRIデザインで解析すれば有意差が認められる可能性があるわけです。

ASA声明で指摘されているように、一つの仮説検定のみで急いで科学的結論を出したり政策を決定したりすることは適切ではありません。特に、有意差が認められない場合は、認められた場合よりも、より慎重な判断が求められるということです。