先の大戦後、それまで弾圧を受けてきた新興宗教は堰を切ったように活動を広げ、爆発的に信者を増やす新興宗教黎明期に突入した。
戦後台頭した新興宗教には、神道系の世界救世教、PL教、生長の家、真光、天理教、仏教系の霊友会、立正佼成会、創価学会、真如苑、キリスト教系のエホバの証人、統一教会などがある。
それぞれがそれぞれの教えに従い、救世主だとか最後の教えだとか唯一神などを信仰しているのだが、ちょっと考えても、「我こそは救い主だ」という人が、これだけたくさんいるというのも、実におかしな話だと思う。
本当に世界を救う唯一の存在なら、そんなにたくさんいなくても良さそうなものだと思うが、そこはやはり霊験あらたかな神様、仏様なのだからこれだけたくさん、世の中に救い主がいることに対する屁理屈も、それぞれが持っているようだ。
ただし、私は各宗の教えの詳細まで把握してないし、勉強もしていないので、各宗がどのように世直しをしたいのか?教祖がどれほど有難いのか?その宗教がどれだけ凄い宗教的な力を有しているのか?は知らないし、興味も無い。
各宗共に自分たちの理論と自分たちの実践によってそれぞれがそれぞれに奇跡とか、不思議な体験、魂が覚醒するような体験を経て、信仰を深めている。
ただ、少なからずその体験と称するものやありがたい先生様の言動に心動かされている様は、偶然であったり人の道として当たり前の話であったり、あまりに荒唐無稽であるが故に信じ込まされているケースがあるように思う。
それを悪いとは言わないが、その程度のことなら、少し歴史上の偉人の足跡や学問的に研究され尽くしている中身から見れば、むしろ当たり前と言えるものも多い。つまり、大多数の新興宗教の信者は、あまりに無学であるが故にいとも容易く信じ込まされているとも言える。仮にありがたい先生なり教祖のお言葉があったとして、何も批判を加えないで盲滅法に頭から信じることは、むしろ危険とは言えないだろうか?
信心などと言うものは、憲法で認められた内心の自由の問題なので、正に信じる信じないはあなた次第ということになるし、自分以外の誰かが何かを信じ、それに邁進することを、第三者は批判することはできない。むしろ、憲法の精神から言えば批判してはならない。ただ、冷静に考えれば、宗教というビジネスに目覚めたありがたい教祖様が、ありとあらゆる手法を駆使してやっていることは、お金集めであることは論を俟たないのではないか?
教えや教祖の行為がありがたいなら、立派な神殿も豪勢な聖地も瀟洒な住まいも必要ないにも関わらず、新興宗教の教祖、教主はおしなべて立派な建物に住まい、綺麗な衣服を纏い、絢爛に着飾っている。
信者にとっては、教祖や教主が立派な身なりをしていてほしいと願うことは、これは人間の感情としては当たり前のことなので、それを批判する謂れもなければ好きにすればいいと思う。
ただ、何も批判を加えずして盲信するのではなく、肝心なのはそれぞれの教えなりがどう具現されているか?であるだろう。エジプトのファラオの時代以前から、人間は何か目に見えない存在に畏敬の念を抱き、偶像を崇めてきた。人間は何かの絶対的な存在によって作られてきたと信じてきたし、人間はその作り主の意図のままに何かに向かっていると考えられてきた。
ところが、神仏は人間が作りたもうたものであって、それ以上でもそれ以下でも無い事は、科学が証明してしまった今、宗教が持つ意味とは何か?を改めて問い直す時代が来たと言っていいだろう。
私の少ないながらの学びによれば、宗教が言いたいことは、帰するところそれほど大きな違いは無いように思う。それはつまり、人間はいかにあるべきか?という問題だ。人間がどう生き、どう死を迎えるのかが問われているのが宗教であり、天地がひっくり返っても変わらない普遍の定義として、人はいつか死ぬという病に侵されていると言う定義から外れるものは一人もいない。何かの信心に目覚めたからと言って、大病が快癒することも、寿命が150年に延びることもないのだ。
ところが宗教は、人間は細胞が集まった生命であるということ以上に、人間には肉体以外のものが存在すると定義した。これが宗教の厄介な部分であって、人間は肉体以外に魂とか霊魂といったものがあって、その見えざるものと人間の創造主が繋がっており、人間は何かの使命を帯びてこの世に生まれ、何かの使命をなし、死んでゆくのだが、人間の肉体以外のもの(魂、霊魂)は一度別世界に行くが再びこの世に生まれくるという転生の考え方を生み出したのが宗教だ。
創価学会 池田大作名誉会長(95) 死去 政界から悼む声 公明党内には動揺も
世界を俯瞰する時、世界中の人々は何らかの宗教的な教えを持って生活している。
主たるものとしてキリスト教、イスラム教、仏教がそれだが、特にキリスト教徒とイスラム教徒の比率が高い。
キリスト教もイスラム教も、宗派の違いはあれど、人間は創造主の差配によっていずれの日にか地獄や天国に行かされるらしい。ヒンドゥー教徒などは、現世の自分の魂が生まれ変わって、次の世ではもっと魂のステージが高いところに行くと信じられている。14億人のインド人の中で、ヒンドゥー教徒は10億人以上いると思われ、しかもその数は日に日に増え続けている。と言うことは、生まれ変わったヒンドゥー教徒は次々に前の世から生まれ変わってるとしたら、インド人は随分たくさんの人口がいるのだろう。
同じ数の人が死んでは生まれを繰り返してるとすれば、人口が増大することはどう説明するのか理解に苦しむが、そこはありがたいヒンドゥー教の教えのどこかに、その疑問を覆す屁理屈が書いてあるのだろう。
興味は無いが・・・
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以後、
・創価学会という病
・創価学会と公明党
続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。