ジャニーズ問題をめぐって恐れていたことが現実となりました。
被害訴えていたジャニーズ元所属タレントの男性 先月自殺か NHK
ジャニー喜多川氏による性加害問題で、被害を訴えていた元所属タレントの男性が先月亡くなっていたことが分かりました。現場の状況などから自殺とみられるということで、遺族は性被害のトラウマにひぼう中傷などが重なり「心労が一層深刻になっていた」とコメントしています。
捜査関係者や遺族の代理人によりますと、亡くなったのはジャニー喜多川氏からの性被害を訴えてきた元所属タレントで、「ジャニーズ性加害問題当事者の会」にも所属していた大阪市の40代の男性です。
遺族の代理人の弁護士によりますと、男性は性被害によって精神的な不調が続いていると訴えていたほか、被害を告発したことをきっかけにインターネット上でひぼう中傷を受けていたということです。
人間が受ける心の中の【ストレス=応力 stress】は心の中の【ひずみ strain】を増大させ、最終的に【自己破壊的行動 self-destructive behavior】を引き起こすことが知られています。このような【心理学的 psychological】なストレスとひずみの解釈には、しばしば固体の【力学的 mechanical】なストレスとひずみの関係が用いられます[関連ページ]。
このエントリーでは、当該事案における被害者への誹謗中傷の危険性について、理論的に説明したいと思います。
固体力学における応力-ひずみ関係
固体の内部に応力(ストレス:単位面積当たりに作用する荷重)を載荷するとひずみ(単位長さ当たりの変位)が発生します。この関係を図に示すと次の通りです。
まず、応力が低いレベルでは応力とひずみは比例関係にあります。これを【フックの法則】といいます。固体に荷重を載荷すると発生する応力の大きさに比例して固体はひずみ、固体から荷重を除荷すると物体のひずみは解消されて元に戻ります。この可逆的な固体の挙動を【弾性挙動 elastic behavior】といい、弾性挙動が生じる応力の範囲を【弾性域 elastic region】といいます。
次に、応力が一定の値を超えると、固体内部にミクロな亀裂が発生し始めます。この現象を【降伏 yield】といい、このときの応力を【降伏応力 yield stress / crack initiation stress】といいます。降伏応力を超えると、固体内部に発生したミクロな亀裂が変位を促進するため、応力の増加量に対するひずみの増加量が弾性域よりも大きくなります。また、亀裂が発生すると、固体から応力を除荷しても固体のひずみは完全に解消されることなく元には戻りません(補足を後述します)。この不可逆的な固体の挙動を【塑性挙動 plastic behavior】といい、塑性挙動が生じる応力の範囲を【塑性域 plastic region】といいます。
応力が降伏応力を超えてさらに増加して行くと、ミクロな亀裂が発生・進展・連結し次第に成長して行きます。そして、応力が一定の値に達すると、個体にマクロな亀裂が形成されて固体を分離してしまいます。この現象を【破壊 failure】といい、このときの応力を【破壊応力 failure stress / peak stress】といいます。
破壊後の固体には、破壊応力以上の応力が発生することはなく、小さな応力で亀裂の発生・進展・連結が進行し、ひずみが増大していくことになります。
残留ひずみ
ここで塑性挙動について、応力-ひずみ曲線を用いて少しだけ補足しておきます。
図において、O点の状態(応力とひずみがゼロ)から次第に荷重を載荷して、A点の降伏応力に到達したとします。ここまでは弾性域なので亀裂は発生せず、荷重を除荷するとひずみはゼロとなりO点に戻ります。
しかしながら、荷重をB点まで載荷してから除荷すると、応力-ひずみ関係はO点に戻らず、C点に移動します。これは、内部にミクロな亀裂が発生して固体に不可逆的な変化が生じているためです。この不可逆的なひずみを【残留ひずみ residual strain】といいます。
この状態から再び荷重を載荷するとB点に戻り、ここからは再びミクロな亀裂が発生する塑性挙動に移行します。D点で応力が破壊応力に到達すると、ミクロな亀裂が発生・進展・連結してマクロな亀裂となり、固体は分離します。この後はいくら荷重をかけても破壊応力を超えることはなく、ひずみが増大して行きます。
E点に達したところで荷重を除荷すると応力-ひずみ関係はF点に移動します。破壊した固体には大きな残留ひずみが残ります。ここで再び荷重を載荷すると、再びE点に戻り、低い応力レベルでひずみが増大することになります。
心理学的ストレスと心理学的ひずみ
ここで力学における応力-ひずみ関係を心理学的なストレス-ひずみ関係のコンテクストに置き換えてジャニーズ性加害について論じていきます。
ジャニー喜多川氏による性加害の被害者は【発達心理学 developmental psychology】でいう【児童期後期 late childhood】から【青年期 adolescence】に移行する年頃であるアーリーティーンズからミッドティーンズの男子です。第二次性徴が始まるこの時期は、男女を問わず「自分とは何であるか」を悩む【アイデンティティ・クライシス identity crisis】が発生し、これを問い直すことによって【アイデンティティ identity】を確立することになります。
このアイデンティティ・クライシスによって、各個人は心にストレスを受け、心にひずみが発生しますが、これは人間の発達過程の範囲内であり、心に傷が発生しない弾性挙動であると言えます。
しかしながら、この時期に別の大きなストレスを受けてストレスの合計が降伏応力を超えると、心に傷が発生することになります。ジャニー喜多川氏による性加害は被害者に大きなストレスを与えたことは疑いの余地もなく、被害者の心は降伏(心がへこむ)のみならず、破壊(心が折れる)された可能性があります。
ジャニー喜多川氏による性加害が止まると、被害者に載荷されていた過剰なストレスは解消されたものと考えられますが、心に発生した傷は残留ひずみとして不可逆的に残ります。これがいわゆる【トラウマ=心的外傷 trauma】です。この心の傷を持っている被害者、特に心の破壊現象を経験した被害者は、小さなストレスの増加によって傷が拡がりやすいことが知られています。これが【心的外傷後ストレス障害 PTSD: post-traumatic stress disorder】です。
加えて問題があるのが、極めて大きなアイデンティティ・クライシスによって、本来この時期に確立されるはずのアイデンティティが、被害者には十分に確立されていない可能性があるのです。この場合、社会における自分の居場所を見つけられずに苦しむことになり、不安症やうつ病にかかる可能性が指摘されています。被害は、加害行為時の被害だけでなく、この加害後に発生する被害が小さくないのです。
以上のように、人間の心は固体の力学挙動と類似した応力(ストレス)-ひずみ関係を示します。トラウマ(残留ひずみ)を治療することは簡単ではなく、被害者には社会からの一定の配慮が必要です。ストレスの小さな増加が大きなひずみに発展するのです。
誹謗中傷は暴力行為
2023年9月のジャニーズ事務所による性加害認定は、アイデンティの確立が不十分であった被害者にとって、自分が何かを見つめ直す大きなチャンスであったと言えます。しかしながら、そこに発生したのは、まったく必要のない自己承認欲求をもって正義を振りかざす第三者による激しい【誹謗中傷 slander】でした。
もちろん、この事案において、被害者の補償について論理的な意見を述べるのは「言論の自由」によって保障されています。被害者の主張も常に合理的であるとは言えません。しかしながら、被害者に対する【人格攻撃 ad hominem】は、被害者の心のひずみを増大させる重度の【暴力行為 violent behavior】です(トラウマを持っていようがいまいが誹謗中傷は暴力行為に他なりません)。日本社会では、自分と異なる意見の要因を論者の人格に求めて叩くことが横行していますが、これは大きな勘違いです。言説の真偽は論者の人格の善悪とは無関係です。
近年のインターネット社会においては、【サイバー・カスケード cyber cascade】による誹謗中傷が止まりません。インフルエンサーに忠誠を誓う【集団極性化 group polarization】した集団の戦闘員が、気に入らない相手を敵認定したインフルエンサーの犬笛を合図に、抗することができない多量の誹謗中傷を一斉に投げかける【集団攻撃 mass attack】が展開されています。暴徒と化した彼らが求めているのは、社会正義ではなく、ゲームに参加して勝つことなのです。
心に傷を持った児童性被害者に対して集団攻撃が行われた場合、当然ストレスは瞬時にピークに達し、心が破壊されるのは自然な成り行きです。このとき最も懸念されることは、アイデンティティの確立が不十分な被害者が自己破壊的行動を起こすことであり、その最悪の結果が自殺です。
今こそ私たち日本国民は、誹謗中傷という暴力のメカニズムについて強く認識し、社会で誹謗中傷が生じないよう集団で監視することが重要です。