宗教と賢人:「職業宗教家」を区別してこなかった日本

稲盛和夫氏がJALの再生に乗り込み、それが順調に進んでいる頃、氏の名声は非常に高まりました。氏が行っていた盛和塾には国内のみならず、海外、特にジャック マー氏など中国からの参加者も多く、高い評価でした。当地バンクーバーにもその組織が生まれたのですが、それを見たある方が「あんな宗教集団はご免だ」と吐き捨てるように言ったのが今でも強く印象に残っています。

それを言った氏はなぜ宗教集団と思ったのでしょうか?

稲盛氏の考えや行動、発言を学ぶことが牧師の講話や聖書っぽい教義だと思ったのでしょう。

私はそれをずっと考えていました。正直、10年以上たった今でも明白な答えが出たわけではないのですが、たぶんこうなのだろう、という輪郭はあります。

日本人に宗教心はあるのでしょうか?おおいにあります。神社に行き、賽銭を入れ、お祈り事をします。道端には地蔵があり、苦しい時の神頼みとか、お百度参りとか縁起を担ぐとか、それこそ、日本人は宗教心にあふれているのです。

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宗教とは何か、といえば私の定義はこうです。

人は一人で生きていけません。そして人生、苦しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、幸せなことなどがまるで四季が巡ってくるように訪れるのです。波風がない全く平穏な時を過ごせる方は少ないでしょう。ある程度の年齢になれば平穏を望みますが、病気だ、家族の不幸だ、子供たちが問題を抱えている…。いくらでも悩ましいことは起きるのです。自己抑制である程度の感情の波までなら耐えられますが、一定水準を超えると心神喪失になるほど全ての力を失います。そうならないため、あるいはそうなった時に自己の力を超えたパワーを与えてもらい、救いを求めるところである、と。

日本には宗教と言っても神道は土着系の民俗信仰故に他の宗教を受け入れる素地があります。故に仏教などが混在する極めてユニークな国だとも言えます。一方、ユダヤ、キリスト、イスラムは明白な教典があり、教えがあり、それに従うことで神の導きがある、とされます。だから宗教同士が混じり合うことはありません。

ただ、神道でも唯一神の宗教でも共通なのは自分に出来ないことを神に伺う点です。大きな違いは伺っても神道は答えがなく、教典がある宗教には暗示があるのです。よって日本人は神社でおみくじをすることで神の暗示を聞こうとするわけです。しかし、どう見ても非現実的というか、論理的展開は出来ません。唯一神の場合は論理性というより教義が普遍的な道理になっていると言えます。

では冒頭の稲盛氏の塾は宗教でしょうか?全く違う、と断言してよいと思います。吉田松陰に学べ、と思う人が多いのは何故でしょうか?松下幸之助や本田宗一郎の話が企業家の中でよく出てくるのはなぜでしょうか?それは「賢人の教えに学ぶ」ということなのです。

最近はどうか知りませんが、昔は面接で「あなたが尊敬している人は?」という質問があり、「二宮尊徳」などと答える人は多かったと思います。日本では英雄は生み出さないのですが、賢人はたくさん輩出しているのです。英雄は強いリーダーシップを伴いますが、賢人は学びの姿勢をより重視します。吉田松陰なんてハチャメチャな人生でした。現代に生きていたら何を言われるかわからないレベルです。しかし、様々な人が松陰に学べ、というからきっとすごい人なのだと多くの人が信じて、祭り上げられているのです。

こういうのは言い伝えや小説が引き金になることが多いのです。坂本龍馬はその典型であったと言えます。竜馬はある意味、数多くの小説家が作り上げた人物像であり、余りにも美しく描かれ過ぎているのです。あるいは、源義経は美男子だったと多くの人が信じていますが、実際には相当のブ男だったというのが現代の研究の主流です。

宗教は必要なものであり、人の心との対話をする場であります。ただ、時としてお布施という欲望の悪魔が潜んでいる場合があり、それに騙されることが社会問題になるのです。宗教家は日々の生活も質素で無欲というイメージがありますが、酒は飲むは女が大好きだ、といったかなり堕落した私生活をしている人もいます。そういう人を私は職業宗教家と呼びます。宗教的には何の威厳も価値もなく、単なる「葬式コンダクター」でしかないのです。

その点からは日本人は賢人に学ぶ方が溶け込みやすいのです。ただ、一部の人が宗教との区別もつかないのはそれを明白にしてこなかった社会にも問題があったのかもしれません。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年11月26日の記事より転載させていただきました。