ダイヤモンド・オンラインで『【どうする家康】「教育ママ」茶々はなぜ負けた?家康が「豊臣滅亡すべし」と決意した瞬間』という記事を出した。
北川景子の演じる茶々の、あざといまでの凄みがNHK大河ドラマ『どうする家康』で好評だ。母であるお市の方と二役だが、お市の方としては、本当は家康と結婚したかったという無理な設定もあり、戦国きっての美女として適役というだけで終わっていた。
だが、秀吉の側室・茶々として再登場するや、北ノ庄での母との別れのときに「私が天下を取る」と約束した怖い戦国の女性を見事に演じている。
この北川景子が先日、滋賀県でイベントに出て滋賀県に親戚がいるといって県民を喜ばしていたが、聞くところによると、祖父が彦根市出身で大阪で医師をして、その子(北川の父)が神戸で三菱重工業の幹部技術社になったということらしい。
その北川景子が長浜市(小谷城)出身の茶々を演じているのは滋賀県民としてはうれしい。ちなみに、かつて寧々を演じた沢口靖子も父親が彦根市出身。意外にも日本を代表する美人女優二人を輩出しているわけだ。
例によって記事の内容はリンクから見て欲しいが、ぜひ、知っておいて頂きたいのは、秀吉は晩年耄碌して不人気だったというNHK大河ドラマの大嘘に反して、秀吉は死ぬまでどころか死んでも大人気で、家康は嫌われていたということだ。
京で秀吉の七回忌に豊国神社の臨時祭が開催されたが、都が始まって以来といわれるにぎわいとなり、京の民衆に秀吉がいまだ慕われていることを家康に見せつけることになった。
大河ドラマでは、秀吉が「秀次切腹事件」などの晩年の「暴虐」や、朝鮮の役などで嫌われていたと描かれているが、これは真っ赤なうそである。応仁の乱で荒れた京を復興し、朝廷の威信を回復し、平安建都以来の大改造を施して近世都市としてよみがえらせてくれた恩人に対する当然の評価だった。それに対して、徳川政権の政治の嫌われぶりは明らかだった。
1611年には秀頼が、秀吉が亡くなってから初めて上洛し、二条城で徳川家康と会談した。後陽成天皇から後水尾天皇への譲位の機会に5年ぶりに家康が上洛してきたので、一度会いたいということだった。茶々は、このときも、秀頼の身の安全を心配して嫌がったが、加藤清正らが勧め、占いでも「吉」と出たので、しぶしぶ承諾した。
清正と浅野幸長が同行し、福島正則は腹痛を口実に、万一の時に大坂城を守る体制を取った。船で伏見に着いたのを迎えに来た家康の子の義直や頼宣に、清正は秀頼に対して臣下の礼を取らせた。
二条城では対面して座ったものの、杯は家康が先に空けた。秀頼は、卑屈にはならずに年長の家康を無理なく立て、称賛された。会談は、清正が頃合いを見計らって「茶々が大坂で待っているから」と秀頼に退席を促して終わった。
清正らは無事に会談が終わって大満足だったようだが、この会談は失敗だった。家康は秀頼について「女に囲まれて育ち、嬰児のごときと聞いていたが立派に育っている」「賢き人だ。人の下知など受けまい」といったという。
どこから見ても優れた人物というのではなく、カリスマ性があって、へつらいながら立ち回るタイプではない、いかにも扱いにくい若者だとみたのである。
秀頼が普通の一大名のように振る舞うことまでは期待しなかったが、「徳川の客分」のような立場で満足してくれれば良い、ということだった。ちょうど、古河公方と北条家とか、京極家と浅井家などの関係のようなものだ。
しかし、諸大名が秀頼に会ったら、「さすがは天下人だ」と思うだろうと恐怖が増した。
しかも、このとき京の民衆は、秀頼の行列を一目見ようと都大路に出て歓迎し、清正は御簾を上げて立派に育った秀頼の姿を見せた。家康が「豊臣滅亡すべし」と決意したのは、このときだったのではないだろうか。
※ 本記事は寧々の視点から描いた『令和太閤記寧々の戦国日記』(ワニブックス)を再構成した。