與那覇潤の新著『危機のいま古典をよむ』は、古典をよすがとして現代社会を読み解く試みである。
「古典」といえば「教養人」の読むものと思ってしまうが、いつの時代も変わらない人間の大切なことを先人の書物に参照することが、「古典」を作るのだという。
そういった視点で『危機のいま古典をよむ』を通読すると、私たちは必要以上に「現在」に翻弄されていることに気づく。
第一部で與那覇が紹介する現代を見わたすための書物は『ヨブ記』から『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』まで幅広い。ターンブルの『ブリンジ・ヌガグ―食うものをくれ』で、コロナ禍でこの社会が「集団としてのアイデンティティ(まとまり)」を失ったかもしれないと指摘するその言葉に何とも言えない気持ちになる。
「反転を感じるときには歴史が必要である」と與那覇は言うが、われわれは過去をたんに現在の自分の写し鏡としか見なくなってしまって久しい。「いま」と「未来」しかないわれわれは「古典」を参照することによって虚心坦懐に先人の考えに触れるべきではないだろうか。
第二部は、與那覇の読書経験から学ぶことができる。その中の「コロナ禍酔いどれ天使」は、軽妙洒脱な筆致でコロナ禍で失ったものに光を当てている。この文章がコロナ禍の最中に発表されていることは驚くべきことである。
第三部に収められた、エマニュエル・トッド氏や苅谷直氏、小泉悠氏らとの書物をめぐる対談は「歴史の忘却」ではなくそこから現状を読み解く対話となっている。ただし、ここにも「古典」「書物」といった共通の前提がなければこのような意義深い対話は成立しないということだ。
最後に収められた三島由紀夫によって提起された課題をわれわれは乗り越えられてきたのかという問いを投げかけている。三島の『青の時代』からわれわれは一歩も進んでいない。むしろ後退しているかもしれない。次の時代に繰り返さないためにも、與那覇の「歴史家」としての仕事に期待せずにはいられないのである。
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同時期に出版された『ボードゲームで社会が変わる: 遊戯するケアへ (河出新書) 』もボードゲームを通じて社会の分断を乗り越える試みである。こちらもいつか紹介したい。